(11月6日第1会場第4報告)
赤間 道夫「マルクスと功利主義――マルクスによるベンサム批判を中心として――」
昨年の報告においては,マルクスの「自由,平等,所有そしてベンサム」論をとりあげた。この際,「労働力の売買がその枠内でおこなわれる流通または商品交換の部面」または「天賦人権の真の楽園」を呼ぶに『資本論』のこの箇所以外にはベンサムを必要としていないという事実に最大着目した。ここでの結論は,第一に,交換行為が個々人の私的利益追求に動機づけられ,この動機が合理的に是認されるための公益性が主張され,「調和」の世界が存在するかのように夢想される現実のあらわれを批判すること,第二に,単純流通にあらわれる姿態を総括しながら私的利益追求の現場そのものの分析をみちびくものになっていること,であった。「自由,平等,所有そしてベンサム」なる言辞が,『資本論』「貨幣の資本への転化」章という場所で,なにゆえベンサムが登場しなければならなかったのかを,マルクス(エンゲルス)のベンサム(そして功利主義)に関する批判的見解を分析することで,その特徴を描き出してみた。皮肉なことに,マルクスのベンサム(そして功利主義)の意識的無視の姿勢に,かえってベンサム(そして功利主義)の市民生活と経済学における影響力の強さとそれに対するマルクスの批判的分析の必要性を読みとることができた。
ところで,マルクスは,功利主義を「現存するもののたんなる弁護論」,つまり「現存の諸条件のもとでは人間相互の今の諸関係が最も有利な最も公益的なものであるという証明」にしてしまった,と見た。さらに,「ジェレミー・ベンサムは純粋にイギリス的現象である」と断定した。ベンサムがブルジョアジーの政治的支配勢力への成長を背景にした特殊イギリス的現象としたことは,ベンサム理論の性格をするどく抉ってはいる。ベンサムが「現実に存在するすべての関係を功利関係のもとに完全に包摂し,この功利関係をそれ以外のすべての諸関係の唯一の内容にまで無条件に高めること」を主張した限りでは正しい。しかし,マルクスが読んだベンサム文献はごくかぎられており,ベンサムを批判しつくしえたとはとうてい言えない。その限られた文献研究をもってすればかえってベンサムへの固執は依然として特異であり,唐突ですらある。
本報告では,昨年度の報告を前提として,マルクスが功利主義とベンサムをどのように見たのかを分析することによって,研究史において比較的顧みられることの少なかった功利主義対マルクス,ベンサム対マルクスの批判的構図をさらに浮かび上がらせることを目的としている。
この際,まず,マルクスにおける市民社会理解とその特徴をおさえたい。
つぎに,功利主義もしくはベンサムを登場させなければならなかった必然性を追跡しようと思う。
ふたつの検討結果は,たぶん,マルクスの「自由,平等,所有そしてベンサム」論の意味内容の解読にふたたび連繋していく。
(1)マルクスにおける市民社会理解とその特徴
(1-1)マルクスにおいて市民社会理解の集中的表現は,「自由,平等,所有そしてベンサム」を試論的に展開した『要綱』段階に見いだすことができる。近代的思想家(たとえばロック,ヘーゲル)が理解した近代社会=市民社会論に,功利主義理論の生成原理とそれによる市民社会理解を結合させようとしたことは,功利主義やベンサムへの直接的言及はないものの,マルクス独自なものである。
(1-2)「功利主義のベンサム的段階」を区別しなければならないが,マルクスは最小限の関説ながら洞察している。すくなくとも,マルクスは,第一に,商品生産社会における私的利益追求という機動力,第二に,「事物の予定調和」なる商品生産社会に具備されているとする自動調節機構,を「ベンサム」にこめた。
(2)ベンサムはなぜ登場したか?
(2-1)ベンサム批判の断定的言辞の裏に功利主義的(=ベンサム的)現実と理論が進行し,無視しえない影響力をもっていた。
(2-2)さきに結論づけた「自由,平等,所有そしてベンサム」論におけるベンサムなる固有名詞の一般名詞化は不可避である。交換行為が個々人の私的利益追求に動機づけられ,この動機が合理的に是認されるための公益性が主張され,「調和」の世界が存在するかのように夢想されるからである。もちろん,「調和」はベンサムの名と結合していたわけではなかったが,バスティアとケアリとを対象とした「調和」の世界を包括するものとして,マルクスが十分咀嚼していた,そして,かつ,「近ごろのすべての経済学者たち」のものとなっていた「ベンサム」をこのような形で,復帰させる必要があったのである。
(3)総じてマルクスと功利主義との関係は,マルクス理論に摂取された経済思想および功利主義思想の受容史という流れのなかで本格的に検討されていい。
【報告者の関連稿・報告】
若森 みどり「『大転換』以降のポランニーと遺稿『自由とテクノロジー』の構想」
はじめにカール・ポランニー(Karl Polanyi[1886-1964])の主著『大転換』1)は,第二次世界戦が終局を迎える1944年に出版された。その労作の背景になっているのは20世紀前半の激動のヨーロッパにおけるポランニー自身の経験である。第一次世界大戦,ロシア革命,ハンガリー革命,世界恐慌,ファシズムそして第二次世界大戦といった既存の社会秩序の崩壊と危機のなかで,ポランニーの思想は形成された。ポランニーの研究活動は三つの時代に区分される。(1)ハンガリー=ウィーン時代[1886-1933]2),(2)イギリス時代[1933-1947]3),(3)コロンビア大学(北米)時代[1947-1964]という区分である。
鋭い感覚によって時代を捉えたポランニーのキャラクターは,理論家や歴史家というよりもむしろ,センシティブな詩人のそれに近い。また,二度の亡命を含む三度の移住を経験し4),ヨーロッパにおいては弁護士や記者,そして労働者教育協会の講師をして生計を立てていたポランニーには,「師」と呼べるような人はいなかった。また,「弟子」の多くは,コロンビア大学時代の,ジョージ・ダルトンに代表される経済人類学者である。ポランニーの生涯にわたる研究活動全体のうちに占める経済人類学の意義を過度に強調してしまう,といったポランニー研究史上の歪みの背後にはこうした事情がある。1986年にブダペストで開催されたポランニー生誕100周年記念会議以来,ポランニー研究は,ポランニーの研究活動全体の究明およびその現代的意義の検討を目的とした新たな段階を迎えている。特に,カナダ,モントリオールのコンコーディア大学にあるポランニー研究所(Polanyi Institute)5)を中心に,ポランニーの学史的研究が徐々に進められつつある。
報告では,『大転換』以降の研究活動に焦点を当てる。『大転換』以降のポランニーの思考展開には二つの研究の流れがある。ひとつは,「経済人類学」として紹介されたコロンビア大学での一般経済史研究である。もうひとつは,近代産業文明(テクノロジー文明)に対する批判的考察を中心とした研究である。ポランニーの死後に刊行された書物のほとんどが前者に属するために,後者について言及されることは少なかった。筆者は,前者・後者とも,ポランニーが『大転換』の第二次大戦後の文脈における意義を再発見しようとした試みであると位置づけている6)。報告では,資料的制約の大きい近代産業文明批判についての思考展開をとりあげる。
『大転換』における市場経済批判と産業文明批判
『大転換』には関連する二つの問題提起がある。ひとつは,「市場経済」(Market Economy)批判であり,もうひとつは産業革命以降の劇的な「進歩」(Improvement,Progress)あるいは「産業文明」(Industrial Civilization)に対する批判である。市場経済の崩壊を宣告した『大転換』においては,重心は前者にあった。『大転換』後の,すなわち第二次世界戦後の文脈のなかで,ポランニーは後者の重要性に対する認識を深めていくことになる。
『大転換』の大筋は,産業革命以降成立した「自己調整的市場」7)とそれに対する反作用としての「社会の自己防衛」との間で繰り広げられる「二重運動」(Double Movement)が19世紀の歴史を突き動かし,20世紀前半の破局的展開をもたらした,というものである。19世紀文明8)の崩壊を宣告する『大転換』の劇的な構成は,二重運動を「市場 対 社会(自然・人間・生産組織)」として定式化する論調を成している。しかしながら,この二重運動という概念にはマリア・セッチが重視した「居住 対 進歩」という重要な表現9)も含まれている。この表現は「市場 対 社会」に還元しえない。なぜならそれは「機械 対 社会(人間・自然・有機的生産組織)」といった対立を含んでいるからである。明らかにポランニーは産業文明の問題を論じているのであるが,そうした論点は市場経済批判という全体の流れのなかでは目立たない。『大転換』においては,擬制商品論10)が『大転換』の理論的コアとしての役割を果たしているため,第3章「居住 対 進歩」,ロバート・オーウェンがしばしば登場する章11),および最終章「複雑な産業社会における自由」などの,産業文明の問題に関連する各章の意義が,十分に反映されていない。後に述べるように,1950年代を通じてポランニーは産業文明批判を軸とした『大転換』の書き換えを試みるが,その際ポランニーが重視するのは,産業文明の問題に関連するこれらの章なのである。
なぜ市場の問題と産業文明の問題を区別するのか。産業文明の問題は市場の問題ではないのか。こうした疑問が想起されるかもしれない。『大転換』においてこの区別は曖昧である。どちらかといえば,『大転換』においては,テクノロジーは中立的に捉えられていた12)。
産業文明の認識と『自由とテクノロジー』の構想
『大転換』後,ポランニーは技術を非中立的なものと捉えるようになる。
雑誌『コメンタリー』に掲載された「時代遅れの市場志向」[1947]13)は,ポランニーが産業文明批判を本格的に提起した最初の論文である。ポランニーははっきりと述べている。「われわれの世代の眼に資本主義の問題と映るのは,実は,産業文明というはるかに巨大な問題なのである」(『経済の文明史』55頁)。この論文において,飢えの恐怖と利得動機を原動力とする「自由主義的資本主義」は,「機械時代」(Machine Age)の第一段階として位置づけられている14)。第二次世界戦後に一般化した「組織された資本主義」あるいは「フォーディズム」は,産業革命の挑戦に対する「第二段階」ということになるが,この論文においてポランニーは,雇用が安定し,飢えの恐怖が緩和された「組織された資本主義」が直面している問題として,産業文明の問題を正面からとりあげている。「われわれが今新しく直面している問題は,人間生活をどう組織するかということである。競争的資本主義の仕組みが衰えていくにつれ,その背後から産業文明の本性が無気味に顔を覗かせている。そこにはすべてを無力化する分業,生活の標準化,生物に対する機械の優位,自発性に対する組織の優位がある。そもそも,科学には狂気がつねにつきまとう。これこそまさに永遠の問題である 」(前掲書 37頁)。ポランニーは,ハックスリーが描いた『すばらしい新世界』が現実となることを危惧している(前掲書52頁)。ハックスリーは,老い・病気・飢餓・不衛生・不確実性・不安・孤独などから解放されたいといった人間の限りない欲望が,設計主義的な全体主義文明を導くことを警告している。興味深いことに「すばらしい新世界」の紀元0年は「フォード」T型車が完成した1909年である。ポランニーが見出した問題解決の方向性は,「人間のかけがえのない統一性」と「生の充足」を取り戻し(前掲書 52頁),「経済システムを再び社会のなかに吸収する」(前掲書52頁)と同時に,「機械を社会のなかに吸収する」(前掲書37頁),というものである。
ポランニーは1950年代中頃から,「すべてを無力化する分業,生活の標準化,生物に対する機械の優位,自発性に対する組織の優位」を,テクノロジー文明(Technological Civilization)に内在する「全体主義的傾向」(Totalitarian tendency)と呼び,これを複雑な産業社会における自由の危機として認識するようになる。
1955年に,ポランニーは,ミネソタ大学で「自由とテクノロジー」という講演を行なっている15)。この講演のテーマは「テクノロジーの進歩によって支払われた代価」としての自由の危機である。ここで提起された興味深い論点は,「自由の敵は,(個人的自由の)外部にあるのではない。自由は内部から色褪せてしまった」というものである。この文章は解釈の幅を有するが,自由の問題を論じる際に「市場 対 計画」という構図がもはや不適切である,というポランニーの指摘して受け取ることもできる。ポランニーは,複雑な産業社会において,諸個人の人間実存に対する底無しの不安(fear)が存在することを指摘し,そうした不安が,限りない権力を創出している,と述べている。ポランニーは,そうした限りない権力を与えられているものに,没人格的な世論および後見的な政府を挙げている。こうして「市場 対 計画」という枠組みを超えた「自由とテクノロジー」の構想があたためられてゆく。
しかしこの時期, ポランニーはコロンビア大学での経済人類学のプロジェクトに多くの時間とエネルギーを注がなければならなかった。その成果の最初の本『初期帝国における交易と市場』が,ようやく1957年に出版された。同年6月,ポランニーは,弟子ロートシュタインとの共著『自由とテクノロジー』(Freedom and Technology)の出版契約を結んだ。娘カリ・ポランニー=レヴィットの話によれば,ポランニーはその頃すでに病を患っており,ひとりで本を執筆することを断念していたという。結論から言えば,ポランニーの死という決定的事実のために『自由とテクノロジー』は刊行されなかった。また,ロートシュタインが若すぎたために,幅広い関心を持つ円熟したポランニーの思想を共有することが出来なかったという困難な状況があり,二人の議論が構想の域を出ることはなく,執筆の段階にまで至らなかった。『自由とテクノロジー』の出版計画を知るポランニー研究者たちは,それが持つポランニー研究史上の重要性を認識してはいたが,大きな資料的制約のために,その存在を指摘するのにとどまってきた。
ポランニー研究所が発行している所蔵文献リストを見るかぎり,『自由とテクノロジー』の草稿としてポランニー自身によって執筆されたのは,契約前にアウトラインとして書かれた二つの草稿「複雑な社会における自由」(Polanyi[1957a])と「機械と社会の発見」(Polanyi[1957b])である16)。これらの草稿からポランニーが描いていた『自由とテクノロジー』の出発点を知ることは出来る。しかしながら,その後の展開に関してポランニーが記述した資料はない。それゆえ,1957年以降の『自由とテクノロジー』の構想の手掛かりを得るには,ロートシュタインがポランニーとの対話を記録した「ウィークエンド・ノート」と呼ばれる資料(Notes of Weekend with Karl Polanyi[1956-59]以下W.N.と略す)17)を参照しなければならない。「ウィークエンド・ノート」には,ポランニーの発想や言葉が,断片的に,繰り返し出てくる。
上述したポランニーの草稿と「ウィークエンド・ノート」の要点は次のとおりである。
【要点1】『自由とテクノロジー』の構想は,『大転換』における産業文明に関連する論点に光を当てる作業からはじめられた。筆者なりに「構想」を整理すると,『大転換』における産業文明の問題は次の三つの論点に集約される。
(1) 複雑な産業社会における自由の問題:オーウェンの「社会の認識」
(2) 複雑な産業社会の成長とポリティカル・エコノミーの成立
(3) 居住 対 進歩 :急激なテクノロジー文明の進歩が与えた居住や文化に対する破局的な影響。
【要点2】以下の「『自由とテクノロジー』における三つの問題」(W.N.19,Dec.1957)が,上述した三つの論点に対応する形で,展開される構想になっていた。
(1) 「ルソー問題によって示される問題」:複雑な産業社会における価値体系の分極化。ニヒリスト的個人主義と反自由主義的全体主義への二極分解。自由の喪失。
(2) 「市場経済によって示される問題」:市場社会の諸困難 ;市場 対 社会。
(3) 「テクノロジー文明によって示される問題」:機械社会(Machine Society)の諸困難;機械 対 生命。 社会のテクノロジー的な性質が人間存在(実存)への不安(fear)を駆り立てている。 蔓延する画一主義。 世論と国家が有する権力の制限なき増大。
【要点3】『自由とテクノロジー』の構成
『自由とテクノロジー』は,「機械と社会」の対抗関係という「二重運動」を基軸に構成される。第1部においては,「機械が与えた社会への衝撃」を,『大転換』におけるスピーナムランドのような叙述で,論じる。第2部においては,機械の衝撃に対する「社会の対応」としての「近代社会哲学」を論じる。【要点4】 機械の衝撃に対する社会の対応としての近代社会哲学の系譜
(1) 社会(改良)主義:オーウェン,初期マルクス
(2) 経済的決定論:ポリティカル・エコノミー,唯物論的マルキシズム
(3) 大衆社会論:オルテガ,マンハイム,ヤスパース,トクヴィル
(4) 人間存在への批判:ニーチェ,実存主義由主義(サルトル),と超反自由主義(スターリン) →「ルソー問題」
【要点5】 成熟した人(『自由とテクノロジー』の最終章)
Polanyi[1957a]における『自由とテクノロジー』の構成
- 第1部 われわれの時代の問題 :テクノロジー文明と自由の喪失
- 第2部 複雑な社会の成長 :機械と「社会の発見」
- 第3部 ジレンマ :絶対的自由,あるいは社会の現実か?
- 第4部 結論
ウィークエンド・ノートにおける『自由とテクノロジー』の構想
- 序章 機械社会における自由の喪失とルソー問題
- 第1部 機械が与えた社会への衝撃 : 機械・市場・国家
- 第2部 機械の衝撃に対する社会の対応 :近代の社会哲学
- 最終章 成熟した人: ルソー問題を超えて
1) Polanyi,K.[1944]The Great Transformation, Beacon Press, 1957(『大転換』吉沢英成・野口建彦・長尾史郎・杉村芳美訳,東洋経済新報社,1975年)。2) ポランニーはウィーンに生まれ,青年期をブダペストで過ごした。ハンガリー=ウィーン時代のポランニーは,マルクスの「経済学・哲学草稿」を通じて,自分が属する社会の矛盾や不満の根源を市場社会あるいは資本主義社会に見出し,考察を深めてゆく。ブダペスト大学時代にはオシュカー・ヤーシィらと共にガリレイ・サークルを組織し,社会民主主義の立場から活発に議論を展開した。そうした華やかな外見の影で,20世紀前半のヨーロッパの不安を敏感に感じ取った若き日のポランニーの精神状態は極めて不安定であったという。1920年代前半は,社会主義経済計算論争に興味を持ち,ギルド的社会主義の立場から,ミーゼスに対して論争を挑んだ。
3) イギリスに移住したポランニーは,キリスト教左派のグループの小さなサークルで,成人教育に取り組んだ。また,労働者教育協会主催の夜間学校の講義を受け持った。ポランニーは相当なエネルギーを講義の準備のために注いでいる。1936年以降のシラバスや講義ノートは,『大転換』の形成過程を示している。筆者の見解によれば,1935年以前のポランニーは「キリスト教的な社会主義者」であった。しかし,イギリスの社会史および経済史的な視角を取り入れ,さらにG.D.H.コールを通じてオーウェンの影響を受けることによって,キリスト教から離れ,「社会の現実」という概念を強く打ち出すようになる。ここではこれ以上詳しく触れないが,この論点は重要であるので改めて展開したい。
4) ブダペスト革命[1918]に続く政治的動乱のなかで,ハンガリー急進市民党の書記長を努めるなどの政治活動を行なっていたポランニーは,1919年,ウィーンに亡命する。1933年,エスターライヒッシュ・フォルクスヴィルト誌の新聞記者をしていたポランニーは,オーストリア・ファシズムの台頭による言論の自由への抑圧を逃れ,イギリスに亡命した。1947年,コロンビア大学で一般経済史を担当する客員教授として招かれることになったため北米に移住した。
5) ポランニー研究所には,未発表論文を含む多くの草稿が保管されている。
6) 前者について言えば,『大転換』第4章「社会と経済システム」および第5章「市場パターンの進化」で展開されている議論が「経済人類学」での研究の雛形であることは明らかである。
7) ポランニーによれば,市場経済の起源は,高価で精巧な機械生産の象徴である産業革命にある。また,「自己調整的市場」あるいは「市場経済」は支配的な理念(idea)あるいは原動力を意味している。
8) ポランニーによれば,19世紀文明は次の4つの制度から成り立っていた。バランス・オブ・パワー・システム,国際金本位制,自己調整的市場システム,自由主義的国家である。これらの制度を可能にしていた母体は,自己調整的市場あるいは市場経済という理念に対する揺るぎない信念である。国際金本位制の崩壊で決定的になったこの19世紀文明の崩壊が1930年代の世界的な危機を導いたという。
9) Maria Szesci[1977]"Looking back on The Great Transformation ", Monthly Review, Jan. 1979.「居住 対 進歩」(Habitation versus Improvement)は『大転換』第3章のタイトルである。
11) ポランニーはオーウェンから「経済的」アプローチに対峙する「社会的」アプローチを吸収し「労働者教育」「機械の問題」についての洞察を学んだ。第7章「スピーナムランド」,第8章「スピーナムランド法以前と以後」,第9章「貧民とユートピア」,第10章「社会の発見とポリティカル・エコノミー」,第14章「市場と人間」において,オーウェンは頻繁に登場する。
12) 「19世紀社会の本来的弱点は,それが産業社会であったということではなく,市場社会であったということだ。産業文明は,自己調整的のユートピア的な経験が過去のものになってしまうときにも,存在しつづけるであろう」(『大転換』訳335頁)。
13) Polanyi[1947]"Our Obsolete Market Mentality", Commentary, Vol.3, No.2, Feb.1947(「時代遅れの市場志向」,玉野井芳郎・平野健一郎編訳『経済の文明史』日本経済新聞社,1975年に所収)。
14) 「機械時代の最初の一世紀が恐怖と慄きのうちに幕を閉じようとしている。人間が自らすすんで熱狂的なまでに機械の要求に服従した結果,この時代の物質的成功はすばらしいものであった。結局,自由主義的資本主義とは産業革命の挑戦に対する人間の最初の対応であった」(前掲書 37頁)
15) Polanyi[1955]"Freedom and Technology",lecture delivered Univ. of Minnesota, Nov.27. 1955 ,ポランニー研究所に所蔵。
16) Polanyi[1957a]"Freedom in a Complex Society". Polanyi[1957b]"Machine and the Discovery of Society". 双方ともポランニー研究所に所蔵されている。
17) ロートシュタインによれば,「ウィークエンド・ノート」は1956年から1959年の期間にとられたノートを選別してタイプで打ち直した25冊から成る。しかし,実際に利用可能な資料としてポランニー研究所に所蔵されているのは,1956年から1958年に書かれた24冊のノート(W.N.1-24)のうちの19冊である。
(11月6日第3会場第4報告)
小峯 敦1)「ヘンダーソンの経済思想――ケインズからの離反――」
本発表はヒューバート=ヘンダーソンHubert Douglas Henderson (1890-1952)の経済思想を考察する。
ケンブリッジの伝統から自由党に接近していたヘンダーソンは,貿易省で統計分析に携わり,またマンチェスターで綿産業の合理化計画に関わっていた。1923年にケインズの強い勧めで,自由党系の機関誌『ネイション』The
Nation and Athenaeum の編集者に就任する。そこで主筆として,自由党の考えを大衆に説明するという役割を果たすようになった。その頂点がケインズとの共著「ロイド=ジョージはそれをなしうるか? ─公約を検討する」(1929)であった。
この共同論文は次のように評価されている。
夫人フェイス=ヘンダーソンによれば,このパンフレットは「真の共同作業であり,どちらが主となって執筆したかについては問題にもならない」2)
。
このように長年の協調関係を保ってきた両者であったが,1929年の総選挙後,ヘンダーソンは意見を急変させてしまう。「経済諮問会議」(1930.1-)を契機とした立場の違いがあった。ついにケインズは次のように言う。「最初のケインジアン予算」3)として名高い1941年予算についてである。
「確かに我々は驚くべきほど統一されたチームだった。私を悩ませ神経を磨り減らされた反対は,主にヒューバート=ヘンダーソンからだった。」(CW22 p.354,母への手紙)
以上のように,長い協調関係を保っていた両者が,なぜ1930年前後に分裂してしまったのか,という謎がある。本発表は,ヘンダーソンの他の著作や「ロイド=ジョージ」をもう1度読み直すことによって,この謎を解明しようとする試みである。
II 「ロイド=ジョージ」の特徴
この共同論文を5つの論点に絞ってまとめておこう。
第1に,失業の原因についてである。奇妙なことに,はっきりとした原因は追及されていない。わずかに大蔵省の国内資本計画に対する怯懦──常に公債削減を優先する態度──が非難されているだけである。例えば,高い公定歩合が失業を生むといったケインズの他の論文の調子4)はない。また,「移転問題transfer problem」5)にも触れておこう。共同論文ではこの問題が難所──最も強力な批判──であることは十分に認識されていた。しかし,あくまでそれは失業の根本的な「原因」ではなく,全般的な有効需要の拡大によって縮小していく「困難」であった。第2に,失業の対策についてである。これは大規模な国家的新規投資計画である。この提唱の理由付けに次の2つの論点がある。第3に,間接雇用・全般的購買力増加の重要性についてである。直接雇用だけではなく,この2つの理由があったからこそ,大規模な資本計画はまず是認されたのであった。第4に,計画の費用についてである。遊休している貯蓄の存在や失業給付金の減少のため,自由党案がいかに少ない元手で最大の効果をあげるかということだった。第5に,この計画の思想上の背景についてである。それは社会主義ではないし,放任された経済でもない。管理された経済運営が進行していたという認識を背景にして,第3の道が選ばれたのである。
III 両者の共通点(〜1929)
両者を比較しておこう。そこには大枠としての共通点と,細かい点での強調点の差がある。この時期,誤った金融政策(政策の失敗)・失業問題(現状認識)・資本計画(解決策)という3つのリンクは,両者において大枠では無理なく結びついていた。この意味で,両者はほぼ同じ経済思想を共有していたと言えよう。
ただし,細かい強調点の違いが既にある。ヘンダーソンにおいて誤った金融政策は輸出産業の苦境を悪化させる「要因」(の1つ)であった。大量失業の根本的な「原因」はあくまで輸出産業それ自体の没落のためである。さらに新興産業があるにもかかわらず失業数が減らないのは,「移転問題」のためであった。この困難性こそ失業問題の「本質」であるとヘンダーソンは考えていた。それに対し,ケインズはデフレ政策という誤った金融政策が失業問題の「本質」であり「原因」であった。各産業ごとの──つまりミクロ的な──移転問題は脇に退いていた,あるいは失業を悪化させる「要因」と考えていたようである。なお,その解決策である資本開発計画では,両者とも同じ理由で正当化した。つまり国内に資金を向けるべきという発想と,間接的・全般的な波及効果に支えられた理由付けは同じである。ここにはマクロ的な視野がある。また,金本位制復帰にはポンドが不当に過大であるという理由で両者ともに反対した。むしろ同等な論調は,ヘンダーソンの側に付け加える部分がないことを意味する。これらに点で,彼はケインズから強い影響を受けていたと考えられる。
3つのリンクという精巧な論理は,しかし既に分裂の萌芽を内包していたとも考えられる。特に地域ごと・産業ごとの考察を重視する思考は,ケインズの国民経済思考(マクロ経済学)と相容れない可能性がある。しかしこの時期は(おそらく)大枠での合意に満足し,両者が異なりうると思いつくことはなかったであろう。以上が1929年までの状況であった。
IV 本発表の主な主張
(1)両者の分裂は複合要因による。根本原因はヘンダーソン側の「給付型福祉国家の拒否」である。
(2)分裂は総選挙の後からほどなく発生した。ケインズは総選挙や経済諮問会議でまず経済学者への説得を開始した一方,ヘンダーソンはそこで経済学の理論に絶望して抽象化を諦めた。両者は理論への態度という点で,ギャップを本質以上に広げている。
(3)蜜月時代からの際立った変更点は,ヘンダーソンが資本発展計画の御旗を降ろしたことと,財政赤字や国際収支赤字のビジネスマンに与える悪影響を大きく重視したことである。
(4)ヘンダーソンが官吏側についたのは,行政的困難を認識したせいもあるが,それは強化要因であって根本原因ではない。
(5)両者は終生「管理経済の望ましさ」という点では一致していた。管理経済の理念──「最高位の企業家としての国家」6)──では共通だが,その具体的な対象では共通できなかった。
(6)複合要因をときほぐすためには,ヘンダーソンの経済思想から考察することが不可欠である。それには代表的な著作・論文を精査する必要がある。
(7)ヘンダーソン離反の原因を追及することは,逆に「ケインズ革命」の考察に役立つ。
(2)英語文献
(3)報告者の論文
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