(11月12日 記念シンポジウム第2報告)
問題視角としては,経済活動/人々(社会)の豊さのために,市場にたいしていかなる政府ほかからの社会的干渉と介入・規制が要請されるかを,環境論の位相から考える。まず,市場経済モデルをめぐる問題が何かを図示する。
同感・倫理・神:市民的主体の形成:市民社会論
(市民社会の倫理的基準と合意)
↓
市場メカニズム(市場経済)
調整(一般均衡):理論モデル
← 制度と非市場
等価性モデルもしくは「市場ゲーム」(競争) (社会システム)
自由主義(主体と競争)
自助/契約の社会的再定義;思想モデル
各人が「公平な観察者(Smith, impartial spectator)」
をその内面に持っている
↑
国家または社会的規制(コントロール)
1.「社会(内)均衡」という位相
市場システム的社会の成立(アダム・スミス的課題は何だったのか)をまず整理する。スミスは,その「社会的体系(system)の原理的定立において,『道徳情操の理論』(6版)における@「徳」の適合性と「情操」の是認原理⇒「観察者」としての「同感(sympathy)」,A 「公平な(impartial)」同感:人間の社会化(市民化)過程での経験の内面化の市民的形成として提示した。それは,経済科学的には<市場>経済システムの学で,方法論的個人主義に基礎を置くとニュートン力学的な経済学を呈する。つまり,個人の選好や評価を説明することではなく,選好や評価を需給を通した「市場取引で表されるもの」(「神のみえざる手」)として受け入れることによって,経済システム・政治システム・社会システムのSub-systemへの分化(国富論第5編)が学的編成としてなされた。故に,経済システムとしての自己調整的市場(一般的均衡,競争的市場均衡)としたスミスの「見えざる手」は,一つの均衡点から他の均衡点への調整であって,市場それ自身には自己組織化をしないということの黙示であると同時に,「望ましい状態」と価値判断されていて,この構図は現代にいたっても古典派復活論者(マネタリスト,サプライサイド,合理的期待形成論),新古典派に継承されてきたが,スミスにおける検証(経済的均衡における社会性)がスポイルされてしまっている。
2. ケインズ,国家・社会的規制,および制度派経済学の位相
ケインズにおいて注目すべき点は,資本主義の未来を「酸素吸入テントの中」に管理されるべきであると見定め,その酸素を供給するのが政府の役割であると了解したことである。ハンス・ブレムスのいう「不完全雇用均衡」である。(1)国民所得というマクロ管理すべき経済活動集合(GNP概念)を
短期的政策志向(流動性選好)として理解するか,長期的関連(GNPと経済的福祉)の国民所得決定理論であるかをめぐり,ケインズ理解が分かれるところであるが,ケインズに対してラスキンによる批判がある。内部性という限られた地平線上で個々の企業が利潤最大化を追求する市場社会経済システムでは,自然の恩恵を最善に利用する課題への対処は困難であり,時代はますます「外部性」という内部の計算から漏れる福祉の観点からの重要性が増しつつあるとする。しかし,「ケンブリッジがケインズをつくった」と言われる社会倫理的背景(マーシャル,ピグーとケインズ)を考察すべきという指摘もなされた(1)。
均衡論と並んで社会経済学的視点(「有機的成長論」)への関心と「生物学的方法論」へ展開があり,「経済騎士道的倫理観に支えられた建設的競争」という視点である。自由競争(市場)の下での生産資源の最適配分は「理念的状態」で,その配分を妨げている要因を「知識」(情報)の不完全という意味での「外部経済性」に求めた「新laissez-faire」(1907,マーシャル→ケインズ,ピグー)であろう。神のもとでの利殖を失った時代における倫理体系を強く意識して,物質的な豊さに価値を求めるのでなく,「私にとっての問題」とは市民を幸福にすることが利益になるというわが孫達(100年後)の「経済的可能性」を射程にいれて,富の蓄積が社会的重要性を失う「自分の行為による遠い将来の結果への関心」「手段より目的を高く評価,効用より善」を選択(「紡ぎはしない野のユリ」にも敬意を払う)としたことは見逃せない(2)。制度派経済学の把握位相は,経済活動の主体の定義(カップ)に特徴付けられる。「制度的人間」( Institutional man) の制度的 (institutionalized) 行動(思考習慣,行動習慣)として,経済社会を「全体社会システムのサブシステム」- 開かれて動態的なサブシステム(システム論的アプローチ)で把握したところにある。「社会的費用」というカテゴリーでは,経済の開放的体系的性格という方法論的指針において,「外部性」(大気汚染)とは,営利的企業にとっては「外部的」であっても,経済の全体システムにとっては「内部的」というカテゴリーでの「社会的費用」の定義である。制度派からみれば,需要と供給の均衡もサブシステムの小部分でしかない。こうした制度派経済学の特徴は,
・生産と消費の開放体系
・進化:技術変化と循環的累積的因果関係の動学的プロセス
・計画化への認識
・規範的科学(社会目標・目的の定式化)
としてまとめられる(3)。
3. パラダイム(視座)の進化
古典派経済学的・ニュートン力学的「変化」概念では,「合理的(功利主義的)・演繹的方法論(←神を自然界から,人間をほかの生き物から区別)からの「永続的進歩への線形的史観(短期的機会追求)」による,市場均衡・定常状態(静学的均衡)への回復過程=変化があるだけである。
これに比して,制度派経済学成立の視座(背景)にはダーウイン的変化概念があり,systemの累積的変化=成長過程:発展的(力学的ではない)定理と言える(1)。
例えば,カップの「利用可能資源の範囲内での最低費用での人間の不可欠な必要充足という原理」である。homo-economicus(孤立的個人)とするホッブスのいう「自然的状態」では,社会的存在(集団)としての人間個々の欲望充足や行動が欠落している故に,個々人間の「交換・契約」が無数に連結して「市場経済メカニズム」が形成されると説明される。また,
新古典派的消費行動(homo economicus) 論もパレート最適な資源配分という「虚構」の仮説に止まり,選択の善悪が問われない。「経済」という人間の欲望充足に不可欠な物財の調達におけるinstitutionalな仕方の経済行動は,合目的的な行動の論理化された視野からは外れてしまう(形式的定義としての「経済」)。制度派といわれるように,社会分析への規範的接近(@社会的効率の判断基準A操作可能性)が,行動基準・成果の量的指標(国民所得)に求められ始めたのである。「オープンシステムとしての経済システム(全体システム)」は「他のサブシステム」,とりわけ「生態系と経済系のバランス」(動態的状態の維持)に開かれるという定義まであと一歩である(2)。
4. 市場と非市場(制度・自然環境)との均衡からの批判的視座
成長の限界論の先達には,F.ソディによる経済成長理論への批判がある(1)。
ソディ「デカルト学派の経済学」(1921)では,「富は貯蓄できず,ただ支出しうるだけのフロー」とする点で,古典派やケインズの長期的均衡論への批判が顕著である。「真の富(資源)」は太陽から来るエネルギーフローで,それは経済過程では消費されるだけであり,「資本」というのは「物理的にはある対象に具体化されたエネルギー」の様態で,エントロピー法則に支配され連続的減耗の法則に従っている「本来的には蓄積できない」という視点である。これは,最初の資本を植物(太陽エネルギーを蓄積)とし,エネルギーを経済学の出発点とした。フィジオクラート(重農主義)が土地に富の源泉を突き止め,マルクスであっても交換価値(富の貨幣価格)の起源を「人間労働」ということで示そうとしたのであって,人間労働に富の起源を示めそうとしたのではなく,イギリスは化石燃料に蓄えられたエネルギーで作った商品を,他の諸地域の食料と交換しているに過ぎないと喝破した。
枯渇性資源の世代間配分:こうした資源経済的思考を挟んで,経済理論の通時基準への関心が出てきた。市場が,それぞれ自己の選好をもつ利己的な経済諸主体を前提に成立しているとすれば,将来世代に対しては,現在市場率より低い「社会的割引率」を適用(ゼロやマイナスの割引率さえ)して次世代を射程に入れる理論が成立できる。
しかし,まだ生まれていない未来世代の諸主体は,野生生物同様,現在の市場参加し入札することが出来ないという市場の失敗がある。将来世代の需要を差別しないためには「割引率をゼロ」と仮定する(G=レーゲンの提言)しかない。こうした「割引率」という経済外的な問題意識は,制度派経済学の研究題目で提唱されたのであり,将来世代についていかなる割引率を適用するかという回答は経済理論(古典派・新古典派)の中にはなかった。
サミュエルソンの「世代交代モデル(overlapping generations model)」:新古典派内における内省である。「通時的な資源配分は,部分的に重なりあう世代間の取引から生じる」と付け加えたのである。しかし,その定義的限界は,枯渇性資源が昔の世代から通有して償却されてきて,現在世代から新しい将来世代と部分的に重なりあうその世代の稼いだ所得の一部と交換されるという仮定であるが,この場合,「内在する次世代へと手渡す枯渇性資源」の過少評価が拭い去りがたい。
将来需要にも現在市場で一定の価値を与えるということ(割引率設定)の問題は,将来世代を価値評価する「倫理」的価値判断が必要で,また技術とテクノロジーの歴史(見通し)が必要とされる。
5. 環境経済学的視座へ展開
環境価値評価(CVM)と「富」の定義:マクロ管理的必要から,古典派(スミス)の「人間生活の必需品・便益品・娯楽品」をどの程度享受できるか(自分が支配できる労働の量または他人から購買できる労働の量)という延長上に,国民経済計算体系(SNA)指標が作成されるようになった。しかしそれは,スミスにおける「価値の尺度」としての「労働」とは「苦痛,負効用」を含むものとしての「労働」の定義で,その代償代価としてのマクロ把握であったという限界があった。重農主義,ペティ,そしてスチュアートでは,「自然の支配(統治)」を説いて,自然と社会とを連関させる自然的秩序のパースペクティブのうちに経済的価値循環を算定しようとしたにもかかわらず,スミスを始めと古典派・マルクス経済学では,「市場内循環」を価値再生産の理論としての「労働」への還元に限定してしまった。以後,経済学は基本的に,自然・環境・人口といった問題を経済学的枠組みから外している。近年の国民経済計算体系の見直しにおいて,価格によって表象化しきれない環境や資源問題を処理不能だとした経済学の方法そのものを問い直し再構成しようとする方向が出てきている(1)。
環境政策からの要請(成長の限界と倫理上からの視座(equity)):Mishanは,法(システム)が中立ではないこと(資源の効率性は法から独立では取り扱えない),equity(衡平)の観点:公正,違法,アメニティ,子孫への影響,情報などでの偏りから派生する「所得効果,取引費用の存在」,etc は「コースの定理」を成立させない(パレート最適基準が働かない)とした。そして,社会的弱者(消費者),住民が静寂な環境を享受する権利であるアメニティ権を提起し,経済学的研究の「外」におかれるequity(衡平):規範性をどう導入するかを強く意識した(2)。
シトフスキーにおいても,「経済の枠外」(市場を通さない<満足>の価値),「非経済的なもの」が考察された。そして,資源の無駄な消費(追加コスト)←消費者行動の「動機」(心理学的,功利主義的分析)への経済評価が俎上にあがり,以後,新古典派においてもまた,CBA(費用対効果)の経済評価が政策的道具として取り上げられるに至った(3)。
現世代のうちでの形式的対等の市場参加者の間に横たわる,資産・情報・健康における非対称性だけでなく,環境悪化や資源枯渇といった人間社会の外界とか,将来世代の現世代における市場の意思決定への参加機会が閉ざされていることへの政策的修正・補正措置(ルール)を制度化する選択肢が求められている。イギリスのStakeholder
Capitalismにせよ,「社会的責任投資(SRI)」というエコファンド的金融商品の運用が欧州全域で80年代以降に広まり,また高齢化社会を地域コミュニティが支える医療サービス市場のコミュニティ制約性にせよ,市場に委ねてしまわない「社会的規制」の要請がある(4)。
6.結語
「社会システム」(制度)と市場経済の位相においては,
・スミスのいう「同感の情」を社会的形成の要として再定義する
・資本へのコントロールを社会的規制としておこなう国家の位相(地方・コミュニティ単位,中央集権と区別される包括的政府の形成)
・サミュエルソンの「世代交代モデル」にみる「通時的な資源配分が部分的に重なりあう取引から生じる」
定義の世代的限界,将来世代を価値評価する「倫理」的価値判断の問題
がある。ここで注目しておきたいのがドイツの経済政策思想である。自由主義学説(オイケン,レプケ)の見地から,社会の骨格をなす法体系・法制化に,独自の文化・歴史・伝統・価値観を織り込んで,「連帯・対話・協力」を重視する「社会的市場経済」として提起された経済秩序構想である。曲折を得て統合志向の政策理念として後には再評価され,経済と社会に潜在的に存在するさまざまな係争を調停して,社会的発展を最大化する政策のための市場経済という思想的背景をなしている。統治(ガバナンス)のあり方として,「規制のない市場はありえない」とする「新しい社会均衡」の必要が認識されているのである。
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