第62回大会報告集
(24-2-4)
小峯 敦* (新潟産業大学)「ノーマン総裁とケインズ ――1920年代の金融政策の一評価――」
I 発問の順序
モンタギュー・ノーマンMontagu Collet Norman (1871-1950)は、イングランド銀行総裁(1920-1944)として、戦間期イギリスの金融当局の最高責任者であった。
ノーマンは金融史家にはよく知られた存在だが(近年の論考として平木[1997])、ケインズ研究家にはさほど注目をされていなかった。しかし、戦間期の経済思想・経済政策の発展を顧みる時、ノーマンとケインズの比較は不可欠な作業となるはずである。
ところで、ノーマンの政策体系(その意図と歴史的帰結の混合体)の評価について、従来は2つの見解が鋭く対立してきた。
第1は、「ノーマン=意図的デフレ政策の推進者」と断罪する立場である。第2は、その意図や産業合理化の推進を讃え、「ノーマン=ディス・デフレ政策の体現者」と高く評価する立場である(ここでディス・デフレ政策とは、高金利が経済に若干の抑圧的な効果を与えることを認め、その悪影響を回避するような政策のことであり、田中[1976]による名前付けである)。
果たして、この2つの評価は妥当であろうか。特にイギリスで、戦間期の経済政策に関する研究が蓄積してきた現在、ノーマンをケインズとの比較で適切に評価することは重要であろう。
II 本発表の要旨
(1)上記の2つの評価は妥当性に欠ける。本発表では「ノーマン=不況と金融政策との無関係性を信奉する者」という新しい評価を与える。
(2)第2の立場である「新しいノーマン像」はこの時期の解釈に新たな光を与えたのは間違いない。しかし、ケインズとの比較では、ノーマンの革新性は限定的に評価するべきである。
(3)金融史家(歴史家)は、人々の意図からはとりあえず切り離された大局的な事象把握を得意とする。他方、経済学史家は、ある人物の抽象的な理論や政策の意図から見た事象把握を得意とする。お互いに意思疎通を図り、新しい視角を獲得することが肝要であろう。
III 戦間期の見方
第1次世界大戦と第2次世界大戦の間は、長らく経済史家にとって論争的な期間であった。なぜなら、相反する解釈が併存しているからである。ここではその解釈を、失業論に絡めて、次の3つに分けておこう。
第1の解釈は「悲観派」と呼ばれる。これは最も伝統的な見方である。特に戦後、ある種のケインジアンによる長期停滞論に強く影響された。それによれば、この時期を世界大恐慌に代表されるように、停滞の時期と規定する。その停滞は総需要の不足を原因とするので、ケインズ的な需要管理政策で克服できたのである。失業の種類は「非自発的失業」である。代表的な論者はPollard [1970]やHowson [1981]である。
第2の解釈は「楽観派」と呼ばれる。第1の伝統的な解釈を徹底的に覆そうという意図がある。統計データや公文書の充実に伴い、「思い込みから実証へ」という流れがあった。主に、イギリスの地域・産業の間で、成長率に著しい分裂があることを指摘した「2つのイギリス論」や、重厚な輸出産業から新しい産業への転換期を重視する「構造不況論」が代表的である。失業は構造的なので、総需要の喚起では克服できない。失業の種類は「摩擦的失業」である。Richardson [1967]やAldcraft [1970]などが代表論者である。
第3の解釈は「新楽観派」と呼ばれる。第2の解釈を更に推し進めている。この時期に改善した失業保険制度の拡充を、失業の決定的原因をみなす。失業の種類は「自発的失業」である。失業者自身に失業の原因を求めた点に、大きな特徴がある。代表はBenjamin and Kochin [1979]である。
以上の分類は、ケインジアン(60年代)・マネタリスト(70年代)・合理的期待学派(80年代)という学派・時代の区分と奇妙に符合している。ここにも、経済理論・経済史の見方や評者の現実経済の認識に関して、相互の影響関係が見て取れる。
(なお、経済的側面よりは文化的側面を前面に出した「ジェントルマン資本主義論」が、近年は盛んである。この議論は、産業の担い手であるピューリタンが衰え、疑似貴族的なジェントルマン的力がイギリスを覆い、イギリスの衰退をもたらした、とする。端的には、(地主+金融筋)vs工業という見方である。興味深い論点ではあるが、本発表では触れない。)
III イングランド銀行とケインズ――短観――
本発表の位置関係を明確にするためにも、この論題に関する論考について、若干のコメントを付けておく(もちろん網羅的というより、任意で限定的である)。
Sayers [1956]…1925年の金本位制復帰に関し、10%のポンド過大というケインズの主張に疑問を呈した。この復帰を本質的に雇用対策をみなしている。金本位制による通貨の安定によって、イギリスの輸出拡大を目指したためである。
Clay [1957]…ノーマンについての包括的な1次資料である。自身が総裁の右腕として産業合理化に関わったため、この面の再評価を促進させた。
Gregory [1957]…Clay [1957]の書評。マクミラン委員会の委員としてケインズと対決した経験から、ノーマンの金融政策は独善的ではないとした。その目的は連続しているが、手段において伝統から反逆した、と判断している。
Pollard [1970]…金本位制復帰はシティの圧勝を示したもので、意図的な高金利政策が失業を発生させたとみなしている。ノーマンを最小に評価する一方の極であり、持続的に強い影響力を持った見解である。
Moggridge [1972]…10%のポンド過大評価を受け入れ、Sayers [1956]と真っ向から対立している。この時期の金融政策の決まり方について、包括的な研究である。 田中[1976]…ノーマンの再評価を促した貴重な論考。ノーマンの政策意図を「ディス・デフレ政策」と規定した。
Sayers [1976]…1891年から1944年におけるイングランド銀行の正史。産業合理化についても1章を割き、「奇妙なエピソード」としている。ノーマンに同情的な論調。
浜田[1976][1977]…イングランド銀行の産業合理化運動について、日本での詳細な研究。その運動はイングランド銀行にとって、政策の転換を意味したと評価 している。
加藤[1986]…反ケインズの立場からの詳細な研究。特に戦間期の経済も、市場経済の自律回復力を証明している、と主張している。
吉澤[1986]…先行する研究を整理し、独自な見解を付け加えた。1920年代を「国内優先の裁量主義」の展開時期を見なした。ノーマンの産業介入の性格を、国 際均衡優先主義の延長線上に把握した。
Collins [1991]…産業と金融の関係について、簡潔なまとめ。金本位制復帰がシティの強力さを見せたのは事実だが、金融当局の意図が偏狭であったかどうかは、もっと広い視点から見る必要がある、と判断している。
Eichengreen [1992]…金本位制についての包括的研究。ノーマンが高金利の悪影響を熟知し、望まない政策を行ったと解釈している。
侘美[1994]…大恐慌の原因に関する包括的研究。公定歩合の効果に関する伝統理論が、その調整過程において経済実体の伸縮を強力に引き起こすことを充分に認識していなかった、と批判している。
Garside and Greaves [1996]…イングランド銀行と産業合理化に関する最新の研究。1次資料を豊富に用いている。国家介入を避けるという究極的な目的のために、ノーマンは産業と金融の間で調停を図ろうとした、という評価がある。
V 従来のノーマン評価への論評
従来のノーマン評価に関し、本発表の立場を簡単に明らかにしておこう。
(1)第1の立場「意図的デフレ政策」について この評価はやや不適切である。ケインズとノーマンの対立軸が、国内主義vs国際主義という側面だけになるからである。両者の真の対立は、不況(失業)と金融政策の関係をどう判断しているか、という側面にある。ノーマンは両者を無関係と判断した(無関係説)。それに対し、信用緩和や利子率の長短分離など、有効な金融政策はまだ存在する、とケインズは判断した。
(2)第2の立場「デフレ対抗政策」について この評価には無理がある。2つ理由がある。第1に、ノーマンが高金利の悪影響を充分に熟知していたことは間違いない。それにもかかわらず、国際均衡優先主義(金本位制の維持=長期ではイギリス産業の繁栄)から高金利政策は維持された。第2に、デフレに対抗的な経済政策が皆無である。上記の無関係説により、デフレに対抗する金融政策はない。そこで産業合理化の推進に期待がかかる。しかし、その運動は理念でも帰結でも限定的と判断される。むしろ、ケインズの方が様々な不況緩和策のアイデアを持っていた。
VI 残された課題
残された課題は山積しているが、特に次の2つを指摘しておこう。
・(歴史の再評価)戦前平価での金本位制復帰や高金利政策は、本当に経済に悪 影響を与えたのか。
・(理論と政策)金融政策と財政政策を合わせて考慮し、政策におけるケインズ 革命は、果たしてあったのか。
参考文献(『年報』も参照のこと)
(24-3-1)
高田保馬博士(1883-1972,以下敬称を略して単に高田とする)は,「勢力」 (Power) 理論を主張しこれを応用することで,経済学と社会学の双方の分野で独 創的な貢献を果たしたことで知られている。本報告では,高田の勢力経済学を主 に1910-30年前後の日本経済の動向,特に労働市場でおきた変化と対比させるこ とで,その理論の持った歴史的な意義を論ずる。高田は当時の労働市場で生じて いた諸問題(失業問題,賃金格差の存在,そして農村の困窮など)を解明する上 で,経済的な要因だけでなく,社会学的な見地から経済外的な勢力の要因を考慮 することが必要だと考えた。本報告の関心は,主にこの勢力説によって当時の日 本の労働市場の動向が,どれほどまでに説明しうるものであったか,またどのよ うな関連をもつものであったかを検討することにある。特に戦間期に対象を絞っ た理由としては,高田の勢力経済学が形成された期間であり,その理論の前提に なる環境を提供しているだけに時代と理論の関連を追求することが特に重要であ ると思われるからである。また高田は,従来の経済学に比較して,自身の勢力経 済学は持続的な失業などの現実をより説明できるものだとしてその意義を強調し ていた。高田はまたさまざまな著作の中でみずからの勢力経済学の現実に対する 説明力を例証・実証しようとした。そのため,高田の勢力経済学が実際に当時の 経済をどれほどに説明できるのか,あるいは反映しているのかを,史実に基づい て検証することは大切なことであると思われる(注1)。
1 労働市場分析としての勢力説
高田の勢力経済学は社会学から経済学へ応用されたものであり,特に人間の社 会行動の動機として「力の欲望」が中心になると考えていた。力の欲望とは,他 人よりも自分が優越したいという感情の満足を求めるものである。能力や技術で 他人を優越したいという欲望の特殊な対象として,社会関係における「勢力」が 定義できると高田は主張した。高田は社会的「勢力」を経済分析に適用する際 に,それを「経済的勢力」と「経済外的勢力」との2つのカテゴリ―に分けた。 経済的勢力とは,簡単に言えば金銭や財・サ―ビスを用いて他人を支配する力で ある。高田は経済的勢力を具体的に,労働組合の独占力(労働サービスに関する 独占価格の設定行動)などとして例示していた。一方で,経済外的勢力とは,そ のような「或る物財の介入を待たずして直接に相手を動かす能力」であり,これ は「伝統,習俗,慣習,世論,思潮」などとして作用すると述べている。より具 体的には、例えば社会保障の充実,生活水準の改善,教育水準などの上昇を考え ていた。高田は、持続的な失業現象を説明するものとして、労働組合の独占力= 「経済的勢力」よりも「経済外的勢力」が賃金水準を硬直的にすることを特に重 視した。また勢力経済学によって都市や農村の「相対的な」貧困の問題をも解明 しようとした。
労働市場が完全に競争的な市場であるならば,労働需要と労働供給の一致する 水準で雇用量と賃金は決定され,たとえ不況で労働需要が低下し超過供給が発生 しても賃金が伸縮的に低下することで完全雇用水準に調整される。しかし,労働 者は単に賃金のプライス・テイカ―ではない。高田の考察する人間は,先にも言 及したように力の欲望を行動動機とする社会的存在であった。それゆえに,「各 経済主体は社会的にそれぞれ一定の地位,又は勢力を有する。(略)此勢力に基 づいて一定の労銀を要求する」のである。
労働者の勢力は社会的な地位によって与えられているが,その社会的な地位は 「伝統,習俗,慣習,世論,思潮」によって決定されており,この地位は労働者 に一種の社会的に公認されているような「人格的待遇」を与える。労働者はこの 「人格的待遇」==プライドを充たさないような賃金水準を受けようとしない。ま たこの「人格的待遇」に固執するため賃金は安定的なものになる。 このような労働者の賃金の決定行動に経済外的勢力は影響するが,高田はまた この経済外的勢力である「伝統,習俗,慣習,世論,思潮」は,常に一定ではな く,労働者の「能力,練習,教育」(例えば教育水準などの上昇)、社会保障の 充実、生活水準の改善や労働者階層の普通選挙制への参加の拡大などによって変 化するとした。また労働組合の力の増大は、高田の経済外的勢力には含まれてい ないことは再三の注意が必要である。
2 戦間期労働市場と勢力経済学
高田は今述べたように,戦間期の日本経済の抱える問題として都市の近代部門 での失業問題と農村の困窮を重視していた。以下では、まず前者に関して考察し ていくことにする。第1次世界大戦が終了してから継続していた労働の超過供給 の現象は,特に恐慌期の1930,31年においては,失業者の数も顕著なものがあ り,社会問題化していた。労働組合による争議も頻発しており,組合の要求もそ れ以前までの労働条件の改善から雇用の確保や賃下げの反対を訴えるものに変化 した。
1928年に実施された初の普通選挙や当時頻発していた労働争議などに影響され て,労働者の社会的勢力は増大した。これを反映する象徴的な出来事は,1929年 の救護法の成立にみられるような社会政策上のシステムの進展であったといえ る。救護法は生活扶助,医療扶助,助産,生業の扶助を目的とするなど失業対策 をめざす制度であった。また健康保険や政府管掌保険などの近代的な社会保険制 度の萌芽といえるシステムが成立したのもこの時期にあたる。
以下で経済外的勢力と実質賃金との関係を高田の指摘を幾分拡張しながら実証 的に検討してみることにする。問題は,経済外的勢力を直接・間接的に表す指標 (例えば社会保障の充実,生活水準の改善,教育水準など)と実質賃金の動向と の関連を検証し,高田の主張を歴史的な観点から再検討することである。また高 田は労働組合の独占力の行使(労働争議など)を経済的勢力とし,この経済的勢 力では戦間期の失業を説明するには不十分であるとしているが実際はどうであっ たのかも検討する。以下の推計では,対象とする時期として1910-30年の期間を 採っている。また当日配布する予定の表に検定の結果をまとめた。
まず経済的勢力を表す指標として,労働争議件数と賃金の動向を検証したが, これは高田の主張を直に検証するためである。推計では,労働争議が増加(減 少)すると賃金は低下(上昇)するという負の相関がみられた。高田自身も労働 争議などの経済的勢力が賃金動向(安定性)や失業に影響(正の相関)を与える ことは(経済外的勢力に比べれば二次的ではあるが)認めているので,この推計 の結果はそれを裏切るかのようである。ただ推計の説明力自体はさほど強くはな かった。言いえることとしては、高田が思っている以上に経済的勢力はこの時代 の賃金動向に影響を与えておらず、むしろ企業の業績にかなり左右されていた。
次に経済外的勢力に作用する要因の指標を見てみよう。教育水準の上昇は賃金 動向とどう関連するだろうか。学歴が上がれば賃金も上昇するか,または安定性 をもつものと勢力説では考えられる。個別企業内における昇進や給与などに学歴 がどのように作用したかを知る上での詳しいデ−タを入手することができないの で,本報告ではマクロ的な資料をもとに推計を行うことにした。1910―30年にお いて概括的に述べれば、各学校への進学率は賃金にはっきりした影響を与えてい ないように思われる。
次に生活水準を表す各デ−タと賃金の動向についてはどうだろうか。高田は論 文「住居費の一研究」の中で,大正後期の都市住民の住居費,食料費の動向につ いて統計的な分析を行っている。その論文においても高田は勢力説的な解釈で生 計費の区分を行っている。彼は生計費は,生存費(自己の生命を維持するための 費用),充実費(生活内容の充実のための出費),誇示費(自らの社会的勢力を 誇示するための費用)として区分する。そして最後の誇示費は,世間的な対面を 気にする際に必要な経費としており,所得の高い層ほど住居にたいする出費は安 定的(少なくとも所得の上昇とともには逓減しない)であると主張した。他方 で,高田は食料費に関する支出については,エンゲルの法則を支持して,所得の 上昇とともにエンゲル係数は低下すると述べている。では,戦間期全体で高田の このような命題は妥当するだろうか。生活水準全体は,10―30年を通じて一般的 に上昇したといわれている。住居費に関しては高田の見地からは賃金と正の相関 をもつことが望ましい。しかし住居費,衛生費に関しては有意な負の相関であっ た。この結果は高田の主張とは整合的ではない。また生活水準が上昇していたと はいえ,この時代では家計の支出の約七割が食料支出であった。推計では賃金が 上昇(下落)しても直接には食料支出に関係しなくなっている。
最後に社会保障や文教に関する政府の行政補助金と賃金との関係を見てみよ う。社会保障費の上昇は,賃金と正の相関をもつという推定結果が得られてい る。このことは高田の社会保障の充実が経済外的勢力を強め,それが賃金を上昇 (すくなくとも安定化)させるとした主張に支持を与えると思われる。ただ上記 の推定の多くに言えるがマクロ的なデ−タのため計量上の問題点をはらんでいる ことに留意しておきたい。
以上のようにわれわれは,経済(外)的勢力に関連すると思われるいくつかの 指標と賃金との関連を検討した。総じて言えば,高田の主張が当時の現実を的確 に反映していたとはいいがたいものがある。すなわち,戦間期において労働者階 層が,高田の主張したように失業の主たる要因になるほどその(経済的・経済外 的双方で)社会的勢力を強めていたようには思われないのである。少なくともさ まざまな事象として社会的勢力の進展が見られたとしても統計的な見地からは賃 金の動向に影響を及ぼすほどはっきりとした関係は築かれていなかったと考える ことが妥当ではなかろうか。
さらに高田の近代部門の失業に関する見解に関して従来から注目されていた問 題がある。それは,そのような失業を解決する政策的提言が高田の主張にはほと んど見あたらないことである。高田の勢力経済下の失業を解決する政策は,最低 賃金制度やもろもろの失業補償ではない。そのような政策はむしろ高田的な失業 を増加させてしまう可能性がある。またケインジアン的な有効需要の創出政策に 関しても高田は批判的であった。唯一勧めているのが,労働者(都市住民)に対 してその生活水準全体を引き下げることであり,賃金についていえば,より低い 賃金でその「人格的待遇」を充たすことであった。このような高田の貧乏論とい われる一連の主張は,産業化が進展していく当時の日本においてきわめて異質な 発言であった。
では,なぜ高田は,このような主張を行ったのであろうか。この問題は,農村 の困窮に関する高田の見解を明らかにすることでひとつの解釈が提供できるよう に思われる 。
3 農村問題と勢力経済学
高田は先にも述べたように農村の窮乏を戦間期経済の重要な課題としていた。 というよりも近代部門の失業問題も実はこの農村問題を通してこそ,高田の勢力 経済学全体の中ではっきりとした位置を定めることができるように思われる。高 田は農村部出身であることから,生涯田園生活への憧憬を持ち続けていた。この ような個人的な思いにも裏打ちされて,農村問題に対する政策的主張は失業問題 に比べてとより具体性を帯びているといえるであろう。
高田の農村問題に対しても失業問題と同様に主に勢力説の枠組みで取り組みが 行われている。勢力説的なアプロ−チは主に2つの方向からなされている。第1 に,勢力説的な地代論から封建的な従属性を強調する方向から,第2に農村の生 活水準の安定性を問題にする方向から,この2つの側面で高田の農村問題に関す る見解は要約できると思う。第1の論点については紙数が限られているのでここ では省略する。
戦間期では都市と農村,言い換えると近代的工業部門と伝統的産業部門(農 業,漁業など)との間に賃金格差や生産性の格差が顕著に見られるようになって いた。また農村部から都市へかなりの労働力の移動が生じていたこともそのよう な収入格差からうかがい知ることができよう。
当時の農村の生活水準は,農産物価格の下落や地租や借金などの負債できわめ て窮乏していた。高田は農村の経済的な構造変化としてその自給性の喪失を挙げ ている。しかも農村の人には都会の洗練された消費財を買いたいという「力の要 求」がある。この「力の要求」(あるいは「誇示の欲望」)こそ自給自足の喪失 の元凶であると高田は主張するのである。高田によれば第1次世界大戦による好 況で,一方では日本の工業が勃興し,また米不足がもたらした米価の騰貴により 農村の生活水準は高まった。先に述べたように農村内の産品を購入するよりも都 市の産品が選好された。また負債をして土地の購買や土地の整備などの資金とし た。しかし戦後の農産物価格の下落が負債デフレを引き起こし,農家の生活を圧 迫した。要するに農村の生活水準は戦時中に比べて「相対的貧困」の状態にあっ たといえよう。そしてこのような貧困を解消するために,高田は(1)所得移転 による救済,(2)_農村の生活水準の低下励行==自給自足の促進、という2つの 方策を提示した。両者は必ずしも整合的ではないが,ここでは前者に議論を絞る ことにしたい(両者の関連などの問題は省略する)。
都市と農村で生活水準に格差があると,農村から労働者が流出し,結果的に総 人口(高田の議論では労働者数≒人口)が減少する可能性が増すことになる。こ の解決策として,都市と農村の賃金格差を縮めることが必要であると高田は主張 したのである。すなわち,都市階層に課税をして,それを農村に移転所得として 与えることを政策として主張した。
実際に,30年代はじめでは,台湾や朝鮮半島などの植民地から安価な米が大量 に輸入されていた。農村では米からの収入が大半を成しており,また実質賃金も 下落した。一方で,都市の賃金は相対的に上昇し,農村との生活水準格差が広が っていた。このような現実を前にして,高田は農村の人口を少なくとも一定に保 つ政策を執拗に主張した。そのような主張の背景には,高田が人口と国力をイコ −ルとみなし,また農村を人口の供給源として重視していたことがある。それゆ え人口≒労働力の移動とその変化を規制するものとして,高田は勢力を重視した といえよう。いくつかの理論的な整理はあいまいながら,都市労働者が生活水準 の低下に甘んじるようにと主張した,高田の貧困論は説得力を限定的な意義をも つであろうし,勢力説に基づく特殊な二重経済論と呼んでもいいかもしれない。
まとめ
(1)戦間期では経済外的勢力の伸長はあったにせよ,いまだ高田の主張したよ うには賃金の安定性にはっきりした影響を与えてはいなかった。
(2)農村の貧困は,人口と勢力による特殊な都市と農村との二重経済論の枠内 で考えられていた。その文脈において,高田の(都市部住民に対する)貧困論は 経済的な意味を持ちうる可能性がある。
(3)報告集では,記述を省略したが,都市の労働市場の賃金の安定性は,資本 市場との関連からも支持されている。また長期の雇用慣行は勢力経済学の対象ではなかった。
(24-3-2)
池尾 愛子(国学院大学)「一般均衡の存在問題の研究史:日本から見た展開」
The Study of the Existence of General Equilibrium: A History As Viewed From Japan by Aiko Ikeo, Kokugakuin University
1. Introduction
This paper aims to investigate how the Japanese mathematical economists studied the questions relating to the existence of a general equilibrium from the late 1920s till the early 1960s. We will trace the research line including Kazuo Midutani, Shizuo Kakutani, Hukukane Nikaido, Takashi Negishi and Hirofumi Uzawa. (See Ikeo (1996) on Kei Shibata's contribution.) We will shed light on the complicated history of the study of the existence question, by focusing on Japan's direct connection with Karl Menger, John von Neumann, Oskar Morgenstern and Kenneth J. Arrow. The Japanese scholars who began to study mathematics before 1960 mastered the mathematics which had been developed in the German-speaking world. In this respect, the Japanese did mathematics in a tradition different from those who had studied mathematics in other areas such as France or North America. Within a few years of the end of the war in 1945, the Japanese were working on the similar subjects as were American and European economists thanks to the prompt circulation of scientific, refereed journals. We discuss the rejection of Nikaido's existence paper at Econometrica in detail. The paper was later published in Metroeconomica.
2. Proof of the Existence of a General Equilibrium until 1956
The proof of existence, stability and uniqueness are important topics for the study of general equilibrium theory. Set theory and the convex set method were used for the proof of existence in the 1950s, and these were mathematical tools different from those used for the proof of stability. Moreover, the study of stability analysis was promoted by a group of scholars prior to the study of the existence question carried out by another group. It has been already discussed that in the 1940s several Japanese economists made important contributions to stability analysis, which were comparable to the studies which were developed in North America and Europe in the 1950s (Ikeo 1994).
The research line of the existence question was especially blurred by the controversy over the foundation of mathematics, which culminated in the clash between the formalist David Hilbert and the intuitionist L.E.J. Brouwer in 1927. This controversy did not matter, at least for the study of the so-called existence question, in the sense that Brouwer's fixed point theorem has been formalized by Hilbert's students and become available for economists as well as the economists who used the traditional language in mathematics. Later fixed point theorems became familiar to economists by von Neumann (1937) and Kakutani (1941). The historical development of the study of existence of general equilibrium was further complicated by the development of relevant mathematical tools and game theory, and the interactions and communications among migrating and traveling scholars in the 1930s and 1940s.
In retrospect, T.C. Koopmans (Koopmans ed. 1951: 1) mentioned in English the importance of the intellectual legacy of general equilibrium analysis from Europe in the 1930s. A little later, one pair of economists and three individual economists independently proved the existence of a competitive economy with the use of set theory and convex set method including a fixed point theorem.
3. Karl Menger's Mathematical Colloquium
It is well known that Karl Menger informally organized the mathematical colloquium for mathematicians and economists in Vienna from 1928 until 1936 (Menger 1973: 47). He published their reports and proceedings as Ergebnisse eines Mathematischen Kolloquiums from 1931 until 1937. However, it is relatively unknown that three Japanese scholars, mathematician Yukio Mimura (Osaka University), economists Kazuo Midutani (Kobe University) and Yuzo Yamada (Tokyo University of Commerce, Hitotsubashi University since 1949), attended Menger's mathematical colloquium in Vienna. Mimura made a report on the colloquium and Midutani (1939) discussed Abraham Wald's study of the existence problem. Mimura advised young Shizuo Kakutani (Osaka University) to study the works of von Neumann.
Kakutani was naturally fascinated by von Neumann's works as were many other mathematicians of the day. Kakutani followed Mimura's advice and started with von Neumann's 'Uber ein okonomisches Gleichungssystem und eine Verallgemeinerung des Brouwerschen Fixpunktsatzes' ('On a system of economic equilibrium and the generalization of Brouwer's fixed point theorem' in German, 1928; 'A model of general equilibrium' in English, 1945-6). He found the Ergebnisse eines mathematische Kolloquiums in the library and 'Zur Theorie der Gesellschaftsspiele' (in German, 1937; 'On the theory of games and strategy' in 1959). Kakutani recalled and said, "Von Neumann's papers were rather difficult" (Personal communication with Kakutani). Kakutani also met Midutani in the mathematical seminars held in Osaka-Kobe area.
4. John von Neumann -- Shizuo Kakutani
Kakutani received a chance to study at the Institute for Advanced Study in Princeton University. In October 1940, Kakutani started to attend the seminar run by von Neumann and gave a talk on the extension of Brouwer's fixed point theorem. Brouwer's fixed point theorem is related to point-to-point mapping, while Kakutani's related to multi-valued or point-to-set mapping. Kakutani's idea was published as 'A generalization of Brouwer's fixed point theorem' in the Duke Mathematical Journal of 1941. In October 1941, von Neumann and Morgenstern started to run the seminar on the theory of games. Kakutani and A.W. Tucker were the only participants. Although the Institute for Advanced Study allowed Kakutani to stay there and continue his research after December 1941, he left the United States by exchange ship in May. At that time, von Neumann and Morgenstern's manuscript for their The Theory of Games and Economic Behavior (1944) was quite incomplete. Kakutani confirmed that he did not help them produce a clean manuscript. After the conclusion of World War II, Kakutani came back to Princeton in 1948, and moved to Yale University. He found that the mathematics relating to economics had been developing during the war.
5. Japanese Scholars -- K. J. Arrow
Around 1950 in Japan, a mathematics student, Hukukane Nikaido (b. 1923), realized that John von Neumann's and Kenneth J. Arrow's works of mathematical economics were different from those of Hicks and Samuelson's, which were based on calculus. In the new approach, the abstract economy was modeled based on the knowledge of set theory and convex set methods to establish the existence of general equilibrium and to clarify the welfare aspects of the competitive economy.
The proceedings of the first conference on mathematical programming entitled Activity Analysis of Production and Allocation were published as a Cowles Commission monograph in 1951 and soon copies arrived in Japan. Also in 1951, K. J. Arrow's 'An extension of the basic theorems of classical welfare economics' appeared in Proceedings of the Second Berkeley Symposium on Mathematical Statistics and Probability edited by Jerzy Neyman. Arrow reviewed Pareto optimality from the viewpoint of convex set theory. Gerald Debreu in his 'the coefficient of resource utilization' (1951), independently of Arrow, embarked on the set-theoretic and convex-set method in the study of the optimality of competitive equilibrium.
In the winter of 1952 at the Chicago meeting of the Econometric Society, Arrow and Debreu presented their 'Existence of an equilibrium for a competitive economy' and L. W. McKenzie his 'On equilibrium in Graham's model of world trade and other competitive systems'. Takuma Yasui, who had studied the conditions for the stability of a competitive equilibrium with the use of a system of ordinary differential equations in Japan in the 1940s, attended the sessions. Yasui for the first time learned the fixed point theorem, which was the key to the proof of the existence of a competitive economy. Yet Yasui did not report the heated argument between McKenzie, and Arrow and Debreu. McKenzie proved the existence and uniqueness of equilibrium in Frank D. Graham's model for world trade by using Kakutani's fixed point theorem. The production aspect of the model was represented by a linear activity model in which the primary goods are the labor supplies of the several countries. Arrow and Debreu used set-theoretical techniques to specify the precise assumptions of a competitive economy as the basic starting point. They confined themselves to proving the existence of competitive equilibrium by Eilenberg-Montgomery fixed point theorem and extended J. F. Nash's notion of an equilibrium point for a game to their abstract economy, which was first discussed in Debreu (1952). They were discussing the question of the existence of a competitive equilibrium through a generalization of the concept of a game. Their papers were both published in Econometrica in 1954.
Hukukane Nikaido attended Shokichi Iyanaga's seminar for graduate students, when he was a undergraduate student at the mathematics department of the University of Tokyo. Tsuneyoshi Seki (b. 1924) began to attend Iyanaga's seminar to become a mathematical economist in 1948 after he graduated from the economics department of Hitotsubashi University. Seki was interested in the question of the existence of general equilibrium which was discussed not only in Watanabe and Hisatake's Application of Mathematics to Economics (in Japanese, 1933) but also in K. Menger's Ergebnisse eines mathematische Kolloquiums. Seki delivered a talk on von Neumann's 1937 paper, which stimulated Nikaido to read the paper and von Neumann and Morgenstern's 1944 book.
Nikaido was in Japan working out the existence problem of competitive equilibrium along with the minimax theorem in game theory, the theorem of Nash's equilibrium in non-cooperative games, the von Neumann growth model, and, the Brouwer and Kakutani's fixed point theorems. He did not know McKenzie or Arrow and Debreu's presentations on the same problem at the 1952 Chicago meeting. When he came across McKenzie's 'On equilibrium in Graham's model of world trade and other competitive systems' in the April issue of Econometrica in June or July 1954 in Japan, Nikaido immediately submitted his (first) existence paper to Econometrica. Then Arrow and G. Debreu's 'Existence of an equilibrium for a competitive economy' was published in the next July issue of Econometrica. Nikaido received the rejection letter in October 1954. He admitted that he had had no opportunity to read Arrow and Debreu's article before having submitted the manuscript to the editor of Econometrica (Nikaido's letter to Strotz, 7 October 1954). With minor modifications, such as adding Arrow and Debreu (1954) to the list of references and 'more economic merit', he submitted his (second) existence paper entitled 'On the classical multilateral exchange problem' to Econometrica. This time, unexpectedly, Arrow wrote to Nikaido and suggested that he submit the paper to Metroeconomica, a journal which he had never heard of. Fortunately the paper was published in Metroeconomica in 1956. Nikaido formulated the basic propositions of the existence of general equilibrium as a theorem relating to the excess demand function in the case of multilateral exchange of many commodities, and proved this with the direct use of Kakutani's fixed point theorem.
There are several ways of proving the existence of competitive equilibrium with the use of a fixed point theorem. In any case, it was proved that fixed point theorems imply Walras's existence theorem. Hirofumi Uzawa in his 'Equilibrium and stability' (1962) proved that Walras' theorem implies Brouwer's fixed point theorem. This means that Walras's existence theorem and Brouwer's fixed point theorem are equivalent.
Moreover, Takashi Negishi in his 'Monopolistic competition and general equilibrium' (1961) initiated the study of imperfect competition in general equilibrium analysis. He assumed that consumers were price takers while firms were monopolistically competitive. His firms had subjective inverse demand (supply) functions for their outputs (inputs), being consistent with the given information of the present state of the market. He further assumed the convexity of possible production sets of firms. Then he proved the existence of equilibrium in an imperfect market.
From 1950 to 1960, Nikaido, Negishi, and Uzawa all joined Arrow's project on the Efficiency of Decision Making in Economic Systems at Stanford, which was backed by the Office of Naval Research. Other Japanese mathematical economists such as Ken-ichi Inada and Hajime Oniki also joined Arrow's project. They played active roles in the study of the existence and stability of a general equilibrium in a competitive economy, two sector growth models and welfare economics.
Personal Communications
Shizuo Kakutani at Yale University in New Haven on 5 January and 3-4 April 1995. Hukukane Nikaido on the phone on 7 July 1993, at Tokyo International University on 6 May 1994, and correspondence etc. during September 1996 and January 1997.
Selected References
(24-3-4)
赤間 道夫(愛媛大学)「マルクスとベンサム ――『自由,平等,所有そしてベンサム』の解剖を通して――」
「労働力の売買がその枠内でおこなわれる流通または商品交換の部面は,実際,天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは,自由,平等,所有そしてベンサム (Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham) だけである。自由! というのは,一商品たとえば労働力の買い手と売り手は,彼らの自由意志によって規定されているだけだからである。彼らは,自由で法律上対等な人格として契約する。契約は,そこにおいて彼らの意志が一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等! というのは,彼らは商品所有者としてのみ互いに関連し合い,等価物と等価物を交換するからである。所有! というのは,だれもみな,自分のものを自由に処分するだけだからである。ベンサム! というのは,両当事者のどちらにとっても,問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は,彼らの自己利益,彼らの特別利得,彼らの利益という力だけである。そして,このようにだれもが自分自身のことだけを考えて,だれもが他人のことは考えないからこそ,すべての人が,事物の予定調和にしたがって,またはまったく抜け目のない摂理のおかげで,彼らの相互の利得,共同の利益,全体の利益という事業をなしとげるだけである。」(K. Marx, Das Kapital, Bd. 1, M.-E. Werke, 23, S. 189-190)
I 問題の所在
そもそもこの一節になぜベンサムが出てくるのか? たとえば功利主義でもなく,たとえばバスティアでもなく,たとえばケアリでもなく,ベンサムでなければならなかったのはなぜか? 「自由」以下の順序はなにか根拠があるのか?
「自由,平等,所有そしてベンサム」とは,周知のように,マルクスが「貨幣の資本への転化」を叙述するとき,(1)「流通」・「循環」「形態」W - G - W と G - W - G とを比較しながら,流通局面での資本の一般的範式を G - W - G' とし(「第1節 資本の一般的定式」),(2)等価物の交換がおこなわれている流通世界ではこの一般的範式にもとづくと「資本は,流通から発生するわけにはいかにし,同じく,流通から発生しないわかにもいかない。資本は,流通のなかで発生しなければならないと同時に,流通のなかで発生してはならない」(K.I, S.180)・「資本家の蝶への成長は,流通部面のなかでおこなわれなければならず,しかも流通部面のなかでおこなわれてはならない」(S.181)ゆえに,「ここがロドス島だ,ここで跳べ!」と問題の条件を提示したのちに(「第2節 一般的定式の諸矛盾」),(3)商品市場で「使用価値そのものが価値の源泉」・「現実的消費そのものが労働の対象化であり,それゆえ価値創造」(S.181)という特有の性質を有する商品=労働力(二重の意味で自由な労働者)を発見してうえの「矛盾」を解決する(「第3節 労働力の購買と販売」)という論理的展開の末尾に位置するあまりにも有名な一節である。
「貨幣の資本への転化」を経ていよいよ「無用のもの立ち入るべからず」(S.189)と掲示してある「貨殖の秘密」(S.189)の園にふみこむ直前に,「労働力の売買がその枠内でおこなわれる流通または商品交換の部面」・「単純流通または商品交換の部面」(S.190)を特徴づけるにこの「自由,平等,所有そしてベンサム」が使用されているというわけである。
マルクスがベンサム(そして功利主義)を批判的対象にのぼす例は,全著作を通じてさほど多いわけではない。むしろ,18〜19世紀におけるベンサム(そして功利主義)の影響力からすると少なすぎるといってよい。『資本論』におけるベンサムへの言及も例外ではなく「貨幣の資本への転化」と「いわゆる労働元本」との2箇所においてだけである。フランス革命の精神と密接にかかわる「自由,平等,所有」なる一般名詞となんの説明なしに等値される固有名詞との違和感! Freiheit, Gleichheit, Eigentumと一定の韻を踏んだあとでBenthamと奏でられる不協和音! この「貨幣の資本への転化」のこの場所で,なにゆえベンサムが登場しなければならなかったのかを,マルクス(エンゲルス)のベンサム(そして功利主義)に関する批判的見解を分析することで,その特徴を描き出してみたい。この際,「労働力の売買がその枠内でおこなわれる流通または商品交換の部面」または「天賦人権の真の楽園」を呼ぶに『資本論』のこの箇所以外にはベンサムを必要としていないという事実に最大着目してみよう。
皮肉なことに,マルクスのベンサム(そして功利主義)の意識的無視の姿勢に,かえってベンサム(そして功利主義)の市民生活と経済学における影響力の強さとそれに対するマルクスの批判的分析の必要性を読みとることができるように思われる。
II ベンサム論管見
[1]経済学史の位置におけるベンサム。マルクスと同様にベンサムにたいする厳しい態度が思想史上の流れと理論形成の過程との関連について注目されるケインズの場合をみよう。「われわれは,われわれの世代の中で真先に,多分その間でもわれわれだけが,ベンサム主義の伝統 (the Benthamite tradition) から抜け出すことのできた者に属していた」・「今日私は,ベンサム主義の伝統こそ,近代文明の内部を蝕み,その現在の道徳的退廃にたいして責任を負うべき蛆虫である」・「マルクス主義として知られる,ベンサム主義 (Benthamism) の極端な帰結 (reductio ad absurdum) の決定版から,われわれの仲間全体を守るのに役立ったのは,われわれの哲学の最高峰である個人主義と深く結びついている,このベンサムからの脱却であった。」(J. M. Keynes, "My Early Beliefs", 1949, in The Collected Works of JMK, vol. X, pp.445-446) ケインズはベンサム主義を根こそぎ否定した。ところでケインズの思想的特質を抉る試みをするときかならず引き合いに出されるこの「ベンサムとケインズ」問題は,ケインズがベンサム主義と総称されるすべてから「抜け出す」ことだったのか,あるいはそうではなくベンサム主義のある部分から「抜け出す」ことだったのか,という次元で捉え直すと,あらためてベンサムの主張した「ベンサム理論」とケインズが理解した「ベンサム理論」とが吟味される必要があろう。
いまひとつ特殊日本的特徴にかかわる議論がある。「さて,わが国での功利主義への反応だが,古典派経済学やイギリス思想史との関連で度々言及されるにもかかわらず,その反応は,賛否何れにせよ,著しく低調である。いろいろ理由はあるだろうが,いちばん決定的なのは,'Utilitalianism' にたいする『功利主義』,'pleasure' にたいする『快楽』という訳語なのではなかろうか。」(早坂忠「経済学と功利主義」『リカーディアーナ』季報9,『リカードウ全集IX』雄松堂書店,1975年11月,11ページ) Utilitarianism が日本に紹介された時,適切な訳がなく「烏地利他尼亜里斯吾(ウチリタニアリズム)」とするしかなかった。または,「利学」・「功利主義」と訳するようになった時には,その本来のニュアンスから離れて「もっぱら私欲追及に走る個人主義的・物質主義的英米思想の権化」とみなされたり,あるいは「『打算的』とか『我利我利亡者』といった響き」(田中浩『国家と個人――市民革命から現代まで――』岩波書店,1990年4月,112ページ)をもつことにより,ベンサム主義への関心の低さを引き起こす。西周が Utilitarianism をして「烏地利他尼亜里斯吾(ウチリタニアリズム)」とそのまま当て字を使用した辛苦も,小野梓が utility を訳出するさい「仁義の反対概念としての利益ではなしに,仏教でいうところの無上大利の意味の利,すなわち真実の利を表わす字として『利』の字をあてた」(関嘉彦「ベンサムとミルの社会思想」『世界の名著49 ベンサム,J. S. ミル』中央公論社,1979年10月,63ページ)というエピソードも,この場合現実の漢字からくる日本語としての語感には勝ちえなかったいうことかもしれない。
[2]経済史の位置におけるベンサム。「1832年の議会改革以後,新工場法(1832年),新救貧法(1834年)等を起点として,一連の社会改革が,新しい国家機関――『工場監督官』『救貧法委員』『枢密院教育委員会』等――の形成をともないつつ推進されたことは周知のとおりである。この過程をイギリス史家は『19世紀の行政革命』 administrative revolution in the nineteenth century とよんでいるが,それは,この言葉にあらわされているような,めざましさをもっている。自由放任主義が政策的に開花し結実していった時代は,同時に,『行政革命』の時代であった,という歴史的事実を,われわれは明記しなければならない。事実そのものが,自由放任と国家干渉とを単純に対立させるのではなく,両者の相互的関連を究明することの必要性を明示しているのである。下からの新しい社会形成と,上からの新しい国家形成とをどのように調和させるか,これが時代の課題であり,すぐれて現代的なこの課題を定式化し,その理論的・実践的解決の一つの指針を提供したのがベンサム主義であった。ベンサム主義の再検討・再評価が,わが学界では,以前として,否,いまこそ新たに必要なのだ,といわなければならないのではなかろうか。」・「法学・政治学は別として,わが経済学界では,マルクスの厳しいベンサム評のためか,19世紀の『自由主義段階』を特徴を規定するベンサムおよびベンサム主義者の自由主義を,まさに歴史的に追及する努力がきわめて不十分であり,そのために,『自由主義段階』論は,中味としての自由主義を明示しえない無内容なものに堕する危険をつねにはらんでいる。」(岡田与好『経済的自由主義――資本主義と自由――』東大出版会,1987年3月,43ページ,175ページ。強調は原文。) 19世紀における自由放任と国家干渉との関連について議論を深化させる場合には,「ベンサム主義の再検討・再評価」が必要であること,そして,たぶんにマルクスのベンサム評しかもどぎつい悪罵に影響されたベンサムの過小評価があることを抉っていて,興味深い。
さらに,「イギリスの古典派経済学者やマルクスは,トクヴィルと同様の契約観に立ちつつ,契約を媒介にして形成される生産関係が資本家と賃労働者の階級関係を生みだすと考えた。マルクスの有名な一節(冒頭引用しておいた『自由,平等,所有そしてベンサム』:引用者注)はこのような契約観を端的に表現している」(森建資『雇用関係の生成――イギリス労働政策史――』木鐸社,1988年2月,5〜6ページ)とする指摘も,本報告の趣旨と無関係ではない。
III 「自由,平等,所有そしてベンサム」
(1)「所有」
流通過程における主体は,資本家あるいは労働者であろうと,まず諸商品(この場合は明確に貨幣商品と労働力商品にほかならないが)の所有者としてあわわれる。『資本論』はいうまでもなくそれに先立つ諸著作もこの点ではまったく同一である。ところで,『資本論』執筆過程のなかで重要な時期である50年代末から60年代初頭にかけて,マルクスにとって最大の懸案は,フランスを中心として影響力をもっていた小ブルジョア社会主義者とりわけプルードン主義への完膚なき批判ができるか否かであった。『経済学批判要綱』においてかなりの紙幅を費やしていることは周知のことである。
このマルクスの問題意識からすれば,「自己労働こそが本源的な所有権原 (Eigentumstitel) であると言明し,自己労働の成果にたいする所有こそがブルジョア社会の根本前提であると言明する」「近代経済学者」(「原初稿」S. 49)が批判されなければならないし,そのようにあらわれる姿態そのものの検証が必要とされよう。(1)単純流通にあっては,等価交換の原則にしたがい等価物の取得によってのみ諸商品の所有者となりうる,(2)したがって,等価交換が成就する以前の,つまりはこの単純流通が支配する以前の諸商品の所有は,その諸商品所有者の労働に由来したものであるかのように現象する,(3)かくして,「労働が領有の本源的な様式」(同上,S. 47)となり,「その商品で自分の労働をあらわしている者の対象性であり,彼自身の生みだした,彼自身の他の人々にたいする対象的な定在」(同上)となる。このように,「流通それ自体のなかでは,つまりブルジョア社会の表層にたちあらわれる交換過程のなかでは,各人は受け取るがゆえにのみ与え,与えるがゆえにのみ受け取る」(同上,S. 48)ためには交換の主体も客体もいずれもその前提に「所有」がなければならないことになる。
「所有」が「自由,平等」に先行して究明されるのは,おおよそうえの理由による。「自己労働による領有の法則を前提すると,しかもこれは流通そのものの考察から生じる前提であって,恣意的なものではない。この法則にもとづくひとつの王国が,すなわちブルジョア的な自由と平等の王国が,流通において,おのずから演繹されるのである」(同上,S.49-50)と明確に論理的な前後関係について語っているように,マルクスにとって「自由」以下のかのシェーマは,ひとまずはこのような問題意識のもとで完成したといってよい。
(2)「自由,平等」
「所有」が交換過程の前提であるとすれば,つぎに問題となるのはこの交換が実際成就されるときのあらわれかたである。「経済的な形態すなわち交換が,あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば,交換をうながす内容,すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は,自由を措定する。したがって平等と自由が,交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく,諸交換価値の交換が,あらゆる平等と自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は,純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし,法律的,政治的,社会的な諸関連において展開されたものとしては,この土台が別の位相であらわれたものにすぎない」(『要綱』,S. 168) みられるように,「経済的な形態」=「交換」が「平等」を,「交換をうながす内容」=「素材」が「自由」を,それぞれ措定するというのである。ほかにも,「法的形態」あるいは「内容」からすれば「自由」が,「経済的形態諸規定」からすれば「平等」が,ただしたんなる「自由」と「平等」ではなく,「個人的自由」と「社会的平等」とが,明確に摘出されている(「原初稿」,S. 57)。
交換過程の結果から必然的に貨幣を登場させる。しかし,交換過程のその内実を理解すれば貨幣あるいは貨幣制度がこの関係を変えることはありえない。「貨幣制度は,事実上この自由と平等の制度の実現」(同上,S. 169)・「貨幣制度は事実,平等と自由の制度」(同上,S. 172)・「貨幣制度は実際にはただ,この平等と自由の制度の実在化」(「原初稿」,S. 59)とくりかえし指摘されるように,「貨幣はただ交換価値の実在化にすぎず,交換価値の制度の発展したものが貨幣制度」(同上)であればあまりにも当然というべきである。あくまで「自由」と「平等」とは「仮象的」(『要綱』,S. 171)であり,「ブルジョア民主主義」(同上,S. 165)の世界である。「流通において展開される交換価値の過程は,自由と平等を尊重するだけにとどまらず,自由と平等とは交換価値の過程の産物なのである。つまり交換価値の過程こそが自由と平等の実在的な土台である。自由と平等とは,純粋な理念としては,交換価値の過程のさまざまの契機の観念化された表現であり,また,法的,政治的そして社会的な諸関連において展開されたものとしては,それらがただ[経済とは]別の展開位相において再生産されたものにすぎない。」(「原初稿」,S. 60) ブルジョア経済学者による「ブルジョア民主主義」の神聖視も,小ブル的社会主義者による「自由」と「平等」の理念視も,いずれも同じ過程の誤認から生じたものにほかならない。
(3)「ベンサム」
ここには相関連するふたつの内容が含まれている。第一に,商品生産社会における私的利益追求という機動力,第二に,「事物の予定調和」なる商品生産社会に具備されているとする自動調節機構,についてである。マルクスは,このふたつの内容を「ベンサム」と一括特徴づけているが,『資本論』および準備諸著作においては「ベンサム」が一度として登場していないという事実からするときわめて難解というべきである。 ただし,「ベンサム」は言葉としては登場しないものの,内容についての叙述がいくつか見いだされる。それは「自己利益」・「特別利得」・「私益」の追及が結局は「相互の利得」・「共同の利益」・「全体の利益」としてあらわれるという「調和」の世界となることを,するどく指摘している。しかも,この場合,「双方の個人の動機」あるいは「交換をおこなう主体」の「意識」にそくして言明し,交換をうながす根本的動機を指摘する。交換におもむかせる商品所有者の行為そのものの実際的軌道因を摘出したとみていいだろう。この「ベンサム」があればこそ「所有」にもとづいて「自分のものを自由に処分」することが可能になり,しかも交換行為を実行する際には商品所有者としては「社会的平等」のもとに,「契約」のうえでは「自由」な売買がおこなわれることになる。
ところで,「事物の予定調和」がことのほか意識されるのは,バスティア『経済的調和』である。マルクスの断稿「バスティアとケアリ」で知られるあのバスティアである。「近代の経済学の歴史は,リカードウとシスモンディをもって終わる」(『要綱』,S. 3)がそれ以降例外をなすかにみえる「アメリカ人ケアリ」と「そのケアリに依存していることをみずから認めているフランス人バスティア」を総括的にとりあげた「まえがき」部分とバスティア『経済的調和』の一部分を詳細に検討した「賃金について」からなるこの断稿において,バスティアとケアリを,まず,「ブルジョア社会が近代の経済学のなかに歴史的に獲得したその理論的表現を謝った見解とし,それに反対すること,そして古典派経済学が素朴に生産諸関係の敵対性を書きしるしたところで,その調和性を証明することが必要だと考える。」(S. 4)と断じる。「イギリスの経済学者たちに反対して北アメリカのブルジョア社会のより高度な内在力を主張」したケアリと「フランスの社会主義者たちに反対してフランスのブルジョア社会の低い内在力を主張」したバスティアを鮮やかに対比しつつ(S. 7),「ブルジョア社会内部の調和」・「世界市場的姿態でのブルジョア社会の諸関係の不調和」(S. 9)をみたケアリと「ブルジョア社会の国民的に分裂した構成部分のすべてが,国家の監督から自由になって相互に競争するところでのみ,この調和が実現される」(S. 9)としたバスティアとが,それぞれ「北アメリカの現在の歴史的原理」および「18世紀のフランスの一般化の風潮の名残り」(S. 10)として摘出される。要するに,マルクスにとって調和論の検討の素材とされるのがかの「ベンサム」ではないのだ。
このバスティアとケアリとを介して抉りだされる「調和」は,のちの『資本論』では「ベンサム」にとってかわられてしまうのである。「(所有。自由。平等。)調和論者」(「摘録」,S. 272)あるいは「単純な交換。交換者の諸関係。平等,自由。等々。調和」(同上,S. 275)と明確に書きとどめられているにもかかわらずである。
IV マルクスと「ベンサム」
マルクスにとってベンサムの批判的考察は,ほぼ40年代になしとげられていた。50年代末および60年代始めのいわゆる「経済学批判体系」の構想の具体化のなかでは高利弁護論や賃金基金説という純粋経済学的問題に的をしぼってベンサムがとりあげられたにすぎない。しかし,そのベンサムが「ベンサム」として一般化されるまでには,いくつかの媒介があった。ひとつに,『経済学批判要綱』・『経済学批判』から『資本論』に結実していく「経済学批判」の内容の充実化と軌を一にした単純流通の明確化,すなわち,「私的生産は存続させるが,しかし私的生産物の交換を組織化するという,つまり,商品はほしいが貨幣はほしくない」(ヴァイデマイヤー宛手紙,1859.2.1)とした誤謬にみちあふれた「社会主義」の批判の徹底化,ふたつに,その私的生産の性格を深めれば深めるほど浮き彫りになるブルジョア的生産の特質の鮮明化,がそれであろう。
マルクスは,こうして「自由,平等,所有そしてベンサム」という言葉を創出したが,これらに込められた意味は一様ではない。この順序は,ブルジョア的生産にあらわれる「表面」から「深いところ」への内的考察にささえられている。また,この順序と一定の韻をふむ効果(もちろんドイツ語で)とがあいまって,固有名詞の一般名詞への転化をともなう「ベンサム」は一層効果的である。なぜなら,交換行為が個々人の私的利益追求に動機づけられ,この動機が合理的に是認されるための公益性が主張され,「調和」の世界が存在するかのように夢想されるからである。もちろん,「調和」はベンサムの名と結合していたわけではなかったが,バスティアとケアリとを対象とした「調和」の世界を包括するものとして,マルクスが十分咀嚼していた,そして,かつ,「近ごろのすべての経済学者たち」のものとなっていた「ベンサム」をこのような形で,復帰させる必要があったのである。
それだけではない。この「ベンサム」が第2篇の末尾に置かれているのは,「自由,平等,所有そしてベンサム」としてひとまず単純流通にあらわれる姿態のものをひとまず総括し,そうしながら「ベンサム」において暗示される私的利益追求の現場そのものへの論理的移行を導いてもいる。「無用の者立ち入るべからず」と書いてある現場におもむかせる論理的前提として不可欠の環をなしている。
【報告者の関連稿】
(25-1-1)
藤本 正富(南山大学大学院)「J. S.ミル『経済学原理』「国際価値論」新節の意味するもの」
1.問題の所在
J. S.ミルの『経済学原理』初版(1848)および第2版(1849)における国際価値論は「グレート・チャプター」という評価が定着しているが,『原理』第3版(1854)で追加された新節(第6・7・8節)1)に関しては,かなり否定的な評価がなされている。
エッヂワースはその新節を「ごたごたし,かつ混乱している」2)と評価した。マーシャルにしても,新節に肯定的な評価を与えてはいない3)。チップマンは新節に好意的な評価を与えた4)が,それとてもミルが新たに追加した前提条件を誤って設定したモデルであり,アップルヤードとイングラムによって否定された5)。つまり,新節に関しては否定的な評価が支配的であるといえよう。しかし,これらの評価の仕方に関していえば,それは何らかの理論を前提とし,その理論に照らした上でミルの新節の意義を問おうとするものであった。
本報告では,従来の新節の評価方法とは異なり,ミルがどのような問題意識をもって新節を追加したか,そこでどのような分析を行ったか,その結果として,以前の版での国際価値論に何を付け加えたかを明らかにするつもりである。
2.ミルの問題意識と新要素
筆者はかつて,ミルが新節を追加するにあたって影響を与えたと考えられるウィリアム・ソーントンとウィリアム・ヒューウェルに関する考察を行った際,ミルが新節を追加するにあたっての問題提起は複数の均衡交易条件が存在する可能性を自覚してのものであり,この問題提起への影響はソーントンにあったという見解を提示した。
マーシャルは複数均衡を肯定的に捉え,図形分析により複数均衡の存在とその安定性の問題へと進んで行ったが,ミルはそれを唯一の均衡が決定されないケースと否定的に捉え,その解決へと進んで行った。このような複数均衡の捉え方に両者の決定的な違いがある。
ミルが複数均衡が生じるケースとして例示しているのは,二国二財モデルにおいて,二国ともに需要の価格弾力性が非弾力的な場合である。そして「いかなる数字上の比率を仮定しても」交易条件が存在するのであるから,ミルの複数均衡モデルは,二国の相互需要曲線がともに非弾力的部分をもち,その部分が完全に一致するケースである。これは後にミルが「ソーントン氏の労働論」(1869)において,一般的な需給論に関して,需要曲線が価格弾力性0の部分をもつ場合,そこでは需要曲線と供給曲線が完全に一致するため,その範囲の価格はどれでも決定可能であるという議論と類似する。この理論内容の類似と『原理』第6版(1865)に追加されたソーントンへの謝辞とをふまえ,問題提起という面でのソーントンの影響を確認した6)。
複数均衡という「問題」は需要の価格弾力性から生じてくるものであるが,ミルが国際価値論に新たに導入した要素は「貿易によって開放される資本の量」である。この新要素はヒューウェルの提示した問題点と一致するが,その当時一般的でもあった問題でもあり,ミル自身も『原理』初版ですでに自覚していた7)。そして,開放される資本量と需要の価格弾力性との関係がミルが新節で行った分析である。
3.新節における分析
ミルは『原理』第3版新節においてはじめて,貿易後輸入商品となるべき商品の国内消費量(需要量)を特定した。そして,貿易が開始されることによって,その商品の国内消費量を生産することに使用されていた資本が開放されるのであるが,開放された資本の量は,貿易後輸入商品となる商品の数量に置き換えられる。この輸入商品となる商品の数量を生産していた資本を用いて,輸出商品の輸出供給量が決定される。
ミルはまず,二国の需要の価格弾力性を1と仮定し,二国の輸出供給量がそのまま交換されることによって交易条件が決定されるというケースから分析を始める。第1図において,横軸OCはラシャの数量,縦軸OLはリンネルの数量を表す。また,横軸OC'はドイツによって生産転換されるラシャの数量,縦軸OL'はイギリスによって生産転換されるリンネルの数量を表す8)。イギリスの国内交換比率peはpe =L/C=10/10,ドイツの国内交換比率pgはpg =L/C=20/10であり,この両極の範囲内に交易条件が決定されるとき,二国はともに貿易利益を得る。
ミルは,イギリスに関して,貿易開始前に, 100万ヤールのリンネルを必要としていたが,これは,イギリスの生産費では,100万ヤールのラシャに等しい価値があり,このリンネルを生産することに使用していた資本をラシャの生産に転用して,輸出用として100万ヤールのラシャを生産する,と想定する。これを表にまとめれば,以下のようになる。
表1 イギリス
貿易前のリンネル消費量 | 生産転換されるリンネルの数量 | 供給されるリンネルの数量 | イギリスの相互需要曲線 |
e0M0(=100万ヤール) | Oa0(=100万ヤール) | OM0(=100万ヤール) | M0E0 |
ドイツに関しては3つのケースを想定している。同じく表にまとめておく。
表2 ドイツ
貿易前のラシャ消費量 | 生産転換されるラシャの数量 | 供給されるリンネルの数量 | ドイツの相互需要曲線 | |
ケース0 | g0N0(=80万ヤール) | Ob0(=80万ヤール) | ON0(=160万ヤール) | N0G0 |
ケース1 | g1N1(=50万ヤール) | Ob1(=50万ヤール) | ON1(=100万ヤール) | N1G1 |
ケース2 | g2N2(=100万ヤール) | Ob2(=100万ヤール) | ON2(=200万ヤール) | N2G2 |
ケース0の場合,交易条件は点A0において,p0=16/10に決定され,二国ともに利益を得る。ケース1の場合,交易条件は点A1において,p1=10/10に決定されるが,これはイギリスの国内交換比率に等しい。ケース2の場合,交易条件は点A2において,p2=20/10に決定され,ドイツの国内交換比率に等しくなる。需要の価格弾力性が二国ともに1という仮定がある場合,交易条件は一方の国の国内交換比率と一致する可能性があるが,いずれも唯一の交易条件が決定される。
続いて,ミルは,イギリスの相互需要曲線は固定したままで,ドイツの貿易以前のラシャ消費量をg0N0(=50万ヤール)とし,ドイツの需要の価格弾力性を変化させていく。第2図において,ドイツの需要の価格弾力性が1より小さい場合,ドイツの相互需要曲線はg0G1であり,交易条件は点A1で決定される。このときドイツのリンネル供給量はON1であり,そのためにはOb1の転換資本が必要であるが,これは貿易によって開放された資本Ob0よりも小さい。ドイツの需要の価格弾力性が1より大きい場合には,ドイツの相互需要曲線はg0G2であり,交易条件は点A2に決定される。このときのドイツのリンネル供給量はON2であり,Ob2の転換資本が必要であるが,この場合は,国内の遊休資本がまわされるか,国内の他の商品の生産に用いられていた資本が流れ込んでくるとみなされている。
最後の分析は,二国の需要の価格弾力性がともに1より小さいケース,そして,ともに1より大きいケースの交易条件の決定である(第3図)。二国の需要の価格弾力性がともに1より小さいケースでは,イギリスの相互需要曲線はe0E1,ドイツの相互需要曲線はg0G1となり,交易条件は点A1において,p1=16/10に決定される。二国の需要の価格弾力性がともに1より大きいケースでは,イギリスの相互需要曲線はe0E2,ドイツの相互需要曲線はg0G2となり,交易条件は点A2において,p2=16/10に決定される。ここでの分析では,二国の需要の価格弾力性がともに1であるケースも含めて,交易条件はいずれも16/10で,唯一の交易条件が決定されるものとして挙げられているが,生産に必要とされる資本量は,弾力性がともに1より小さいケースでは,貿易によって開放される資本量よりも少ない資本量(Ob0>Ob1)であり,弾力性がともに1より大きいケースでは,貿易によって開放される資本量よりも大きい資本量(Ob0<Ob2)が必要である。
4.結語
結論として,ミルは,資本の量は需要と比例関係にあるため,「この新しい要素は…実際上の結果には何ら非常に重大な変化はもたらさない(The new element, ...does not seem to make any very material difference in the practical result.)」という結論に至る。
ミルが行った分析は,需要の価格弾力性による交易条件の変動とそれにともなう資本量の問題である。二国ともに需要の価格弾力性1のケースでは,貿易によって開放された資本量のみで貿易が行われるため,国内のその他の資本移動は生じない。二国の需要の価格弾力性を変化させた場合,それにともなう交易条件の変動は,国内の資本移動を引き起こすが,資本量は需要と比例関係にある。
それゆえ,上に挙げたミルの言葉は,貿易によって開放される資本量という新要素は「何ら非常に重大な変化はもたらさない」けれど,複数均衡という問題は残されたままであると解すべきであろう。そして,複数均衡の問題は,国際価値論だけにとどまる問題ではなく,残された問題として,ソーントンの『労働論』(1869)とミルの『ソーントン氏の労働論』(1869)での需給論一般に関する論争へと舞台を移すとみるべきであろう。このように解せば,ミルが『原理』第6版(1865)になってソーントンへの謝辞を加えたのは複数均衡というミルの問題提起への影響であったという解釈も説得力をもつであろう。
共通論題:J. S. ミルと現代
1 はじめに
J.S.ミルは経済の領域への「統治の影響」を扱う『経済学原理』(1848)第5篇の冒頭を, 統治の及ぶ範囲についての両極端の潮流を批判することで始めた。一方では「公衆の知性 や意向を掌握するよりも政府を把握する方がたやすく手っ取り早いと考えて,絶えず,統 治の領域をその当然の範囲から踏み越えて拡げようとする」傾向が,とくに大陸に見られ る。他方,「単なる政府の干渉そのものに反対」する傾向がとくにイギリスに見られるが, それは公共的利益を踏みにじるような支配者の干渉や,性急な改革などへの反撥によって 促されたものだ,と。集権主義と放任主義との両面批判において注目されるのは,「公衆 の知性や意向」,「世論と討論とによって達成される筈の諸目的」などが重視されている 点である。つまり両極批判は単なる中庸主義の表明ではなく,背後に,人間性の実情や, 世論と公共的討論をも通じた進歩への配慮をすべきだとのミルの基準が窺われる。
本報告の目的は,統治の役割の経済的側面に関するJ.S.ミルの議論を,その同時代意識と 功利主義的な基礎づけとの関連のもとに分析することである。とりわけ,人間性を考慮し た二段階の議論という『代議制統治論』(1861)で示された視角が利用される。以下では, 功利主義的な統治論としてのベンサムとの対比,古典派の念頭に置く人間類型としてみた ミルの特質,この二つの観点でミルを系譜的に検討することを介して,とくに『原理』第 4篇後半および第5篇に示された統治の経済的役割論の基準を探っておこう。
2 統治と功利主義
ベンサムを統治論という観点から見た場合,長らく,個人主義的として,もしくは全体 主義的として,両極端の評価がなされてきた(典型的には,前者はダイシー,後者はハイ エクによるイメージ)。だが,ごく最近のベンサム研究(ローゼン,ディンウィディー, ケリーら)は,「期待」と「安全」をキー・ワードに組み込んで,新たな解釈を提供しつ つある。その趣旨を概略的に示すと−ベンサムが『道徳と立法の諸原理序説』(1780印刷, 1789刊)以降,とりわけ1820年前後からの『憲法典』構想などで重視して取り組んだのは, 「安全」を確保するという意味でミス・ルールを如何に防止するか,ということである。 判例の解釈が恣意的に変わったり,既存勢力の邪悪な利害(sinister interest)に基づく立法 がなされたりすると,個人が自らの利益の配慮のもとに選択を行なうに当たっての障害と なってしまう(つまり,期待が損なわれる)。そこでベンサムは,『序説』初版の時期に は主として刑法改革を念頭に,快楽−苦痛という原理的な基礎づけに基づいて犯罪発生を 予防するような実定法制定を構想した。また,既存議会に失望したのちには,三権分立の 発想に替わるべき代議制民主主義の可能性を探るとともに,そのもとで「適切な知性」を 活かすような立法的,行政的な機構(執行権力)の構想を練るようになった,と。
初期においては判例・裁判レヴェルでの,後期においては立法レヴェルでの,ミス・ル ールを避けることをベンサムは構想したのだ,という最近の解釈において,いわゆる「最 大多数の最大幸福」は,いわば結果的に得られるものとなる。ある人の行動が他人の幸福 を損なうことがないようにルール(法と刑罰の基準)が明示されており,立法府の構成と してもミス・ルールが避けられるという「安全」のもとで,個々人が「期待」に沿って行 動するならば,結果的に,ある水準の幸福が社会的に達成されるはずだ,ということであ る。たしかに,ベンサムは『序説』冒頭諸章で,快苦計算によって幸福を計算可能なもの にしている。しかしこのことは,最近の解釈によれば,いわば統治者があたかも中央功利 計画局であるかのように社会的幸福計算を行なって,目標達成のための最適なルールで 人々を誘う,といった集権的な事柄を意味するものでは決してないのである。
さて,ミルはベンサムの功利主義の内容について,内的サンクション(良心)の存在や, 快楽の質的な差異などいくつかの批判,修正を加えた。また,ミルはベンサムとは違って 直接に立法を念頭に功利主義を論じているわけではない。とはいえ,最近のベンサム解釈 が示唆するようなベンサム像とミルとの間に,ある種の類似性が認められる。端的にいえ ば,両者ともその後期において,代議制政体を主題的に論じ,立法的,行政的な執行権力 に知性を活かす方策を構想した点である。ここでミルの場合に,知性のみならず徳性も強 調されている点に,スコットランド啓蒙からのひそかな連なりを見いだすこともできよう。 ミルは「富と徳性とは違う」としている(『代議制統治論』(1861),第2章,第14章)。
ミルの功利主義への態度をめぐって,しばしば,「精神的危機」とロマン主義の影響下 に功利主義に反撥したミルが,後期においてはベンサム的なものに回帰した,とされるけ れども(たとえばホランダー),これは正しくない。たしかに1833年頃にはベンサムに対 して批判的であったとはいえ,その内容は基本的には,『序説』に示されるような人間把 握と,とりわけ父ジェームズ・ミルによる連想心理学的な教育方針に対しての反撥という 要素が濃厚であった。ミルはその時点でロマン主義やサン・シモン派の影響下にあったと はいえ功利主義を棄却していたわけではなく,快苦計算などへの内容上の修正を加えた。 やがて,この修正の観点を維持しつつ,後期の『功利主義』(1861)を中心とする議論へと 洗練していく。政治論では,『自由論』(1859)や『代議制統治論』に見られるヴィジョン の基本骨格は既に1830年代半ばに揃いつつあり,ヴィクトリア期半ばに至る状況変化を勘 案した形で練り直されたが,そこで辿り着いた統治のイメージこそ,後期ベンサムの代議 制民主主義のイメージと照応している,といえる。
しかし,代議制の可能性とそれを支える立法および行政の執行権力の構造や担い手を論 じるに当たって,ベンサムとミルとでは論調の違いが出てくる。それは一面では,時代状 況を反映したものであり,いわば事前的に論じたベンサムと,経過的に渦中で論じざるを 得ないミルとの相違である。ベンサムの場合,『憲法典』を中心とした立法と統治の構想 は,理念の描写であるとともに,何よりも,現存の「邪悪な利害」による統治への批判で あって,自ずと急進主義たり得た。これに対して議会改革の後の混沌とした状況を見た(や がては議員にもなっていく)ミルの場合,状況の変化と改革の可能性を絶えず考慮に入れ ていく(ときに軌道修正をもしていく)という点でも,漸進主義的であった。1848年革命 の後に,社会主義について協同の精神を培う実験としての意義を認め,『原理』第3版に 盛り込んだことなどは,軌道修正の実例である。
他面,両者の念頭におく人間の判断能力について,イメージの違いがあった。ベンサム の場合には,自己利益の判断をできる諸個人から構成される社会にとって統治が何もので あり得るのかということが,いわばシンプルに問われた(1)。これに対してミルの場合,立 法や統治に関わる者の適切な能力が問題であったばかりでなく(この観点から,ミルはノ ースコート&トレヴァリアンの公務員制度改革(1854)を評価したし,労働者の政治参加に は消極的であった),統治の受け手の状態をも十分に考慮しなければならない,とされた。 端的には貧困から抜け出るために産児制限が必要であることすらを多くの人が理解しない ことに示されるように,諸個人が自己利益の判断者として相応しい,ということを前提す ることはできない,というわけである。したがってミルは『代議制統治論』第6章におい て,人間性の実情とはかけ離れた性急な統治の方式を退けた(1860年代のミルは,利他的 精神を育成しようというコントの議論にも批判的であった)。統治と社会の一般的な精神 的進歩(知性,徳性,活発さ,能率など)の関わりについて,人間性の実情を与件とした 場合にどれだけ社会的便宜を引き出しうるか,また,どれだけ自生的に人間性の改善を誘 いうるのか,という二段構えの方向を示唆したのである。
『原理』第4篇後半や第5篇の実践的アートの領域におけるミルの議論は,この二段構 えと関連づけて整理すると構造が分かり易い。第4篇後半はアソシアシオンを通じて人間 性の改善を試みていく場であるのに対し,第5篇はおおむね,人間性の実情を与件として 社会的便宜を大きくしようとする議論といえる。ただし,第5篇のなかにも人間性の改善 に関わる議論が存在する。たとえば,賃金基金説を維持しながらも,賃上げをめざして労 働組合がストライキを行なうことに理解を示した第5版挿入箇所(第5篇第10章第5節後 半)のように,協同の精神の育成を基準に政府の権限の領域(この場合,組合への規制) を狭めるという議論がある。また,権威主義的な干渉を否定する論拠の一つとして,協同 の習慣の養成の必要性を挙げた議論も同様である(第11章第6節)。
3 古典派における人間像
スミスあたりからミルあたりまでを広く「古典派」と呼ぶとして,古典派は概して,地 主,資本家,労働者の3階級から構成される社会モデルを描いている。だが,そこで扱わ れる人間の範囲は均質ではない。企業者的な要素を取り上げるという意味で特徴的な議論 を示すことも可能だが,ここで注目したいのはむしろ,(表現の適切さの点では非常に危 ういが)「能力者」から構成される社会として論じるのか否か,という問題である。
たとえばスミスが『国富論』第1篇で,文明国では富裕の増進に伴ってその効果は社会 の最下層にまで行き亘る,と分業の生産力の効果を称揚するときに,「下層」といっても, 働くなど自らなにがしかの努力をする者たちを念頭に置いていたといえよう。かつて上田 辰之助が明快に整理したように,マンデヴィルにあって「貧者」は本質的に怠惰,無気力 であり,救貧に委ねておけば社会的な負荷となる者たちであった。これに対してヒューム やスミスの捉える「下層」は,欲求,インダストリーあるいは分業の構造のなかに入り得 る者たちである。つまり,自然条件,資本,労働のいずれかを提供しうるという意味での 「能力者」からなる文明社会を描いたのが,スミス『国富論』第1篇であった。スミスや リカードウの場合,(理論構造としてはまったく異なるとはいえ)ワルラスいうところの 「用役」を提供する経済主体を念頭に経済社会を描き出している,と言い換えることもで きよう。
これに対してマルサスやミルの場合,捉える人間像の範囲が異なる。マルサスにとって は,ある意味でマンデヴィル的な問題像の形を変えた復活ともいえるのだが,必ずしも働 く意欲を持つとは限らない人口(貧民)が増大すること自体,社会の安定性を損なう深刻 な問題であった。そこで,いかに人口を一定の範囲内に留めるのか,いかに働かない貧民 に働くことを教えるのか,そしていかに人口を生産的−不生産的な労働部面あるいは農業 −商工業の間に配分するのかということが,『人口論』初版以来の(版によってこれら諸 論点のあいだのウェイトが変化するが)マルサスにとっての課題であった。なお,労働貧 民(下層)と非労働貧民との間の区別という論点に関わって,ベンサムは既に1794-95年 時点に貧民の種類分けを試み,1801年には富裕の増進の観点から非労働貧民の労働人口へ の方向がえが有効だとした。人口抑制と国民的資源の産業間配置の関連を問うという設定 は,やがてチャーマーズ(1808)が発展させるテーマでもあった。
ここで次のように分類をして,ミルのアートの要素をいくつか見ておこう。(1)働かなく ても生きていける(資産や地位がある,という意味での「能力者」),(2)資産を提供し, 仕事を行なう(資本家),(3)働く(労働者,労働貧民),(4)働くことを知らない(怠惰な 貧民),(5)働くに働けない(ハンディキャップ,老齢)。このうちで(1)〜(3)が「能力者」, (4)〜(5)が「非能力者」,ということになる。
たとえばアイルランドの貧農(『原理』第2篇第10章)については,分益小作農のもと では努力しても報われないという状態におかれており,(3)でありながら(4)のような状態に ある。そこで,自作農創設(さらに不在地主制の克服)により能動的に働くという(3)に相 応しい意欲を育成する,という方向が示された。また,婦人労働について,児童を育てる ためにも家庭にいるべきだという形で(5)に含めるのを当然視する風潮に対しては,ミルは 批判的であり,工場法が児童と婦人とを合わせて保護規定のもとにおいていることを不適 切とした(第5篇第11章第9節)。
所得課税については,上記の「能力者」の努力が適正に評価されるかどうか,というこ とが基準である。最低限の生活水準部分を除いての比例課税にすべきだ,というのがミル の主張であるが,これは,第1に(5)の人々の生存を脅かさないようにする必要があり,第 2に累進課税は(2)や(3)の努力へのペナルティーとなってしまうから反対だ,という発想に 基づく。遺贈の自由を認めつつも,遺贈・相続により獲得できる金額を制限するという方 策は,(1)があまりに過大になるのは好ましくない,との判断による(第5篇第2章第3節)。 直接税と間接税との検討は,課税転嫁や一国経済の動向に及ぼす影響といった,リカード ウ課税論と同様な手法に基づいて進められているが(第3〜第6章),そこでも,(1)〜(3) の貢献や(3),(5)の生存が圧迫されないか,ということがしばしば勘案されている。
4 自己利益による判断とその欠陥
自己利益の判断能力をめぐっては,ミルの場合,いくつかのケースがある。
第1は,借り手の保護などの論拠で利子制限法を支持する意見に対して,ミルは,当事 者の判断能力に委ねるべきだ,としている。上記(1)のように資産を他者の運用に委ねたり, (2)のように事業のために資金を借り入れようとするほどの人であるならば,貸借契約のも たらす結果については自ら判断する能力をもっているべきだ,ということである(第5篇 第10章第2節)。この点では,ミルはスミスよりもベンサムの側にあった。
第2は,自己利益についての判断能力が伴わないケースである。児童の保護がこれに当 たる。自己利益について判断できない児童が親の命令により労働を強制されないようにす るためには,児童労働への禁止が必要である。また,親が教育の必要性を理解していない ことが多いから,むしろ統治の責任において教育が保証されなければならない,というわ けである(第11章第8〜9節)。なお,教育によって(3)の労働貧民の状態を改善していこう との発想は(自覚的に行なわれればサミュエル・スマイルズ流のセルフ・ヘルプと呼応し うるものではあるが),やがてマーシャルが有機的進歩に連なる課題として重視すること になる。
第3に,自己利益の判断を集合するだけでは実現できないような社会的便宜は,統治に よって提供される必要がある,というケースである。ミルによる植民の根拠は,国内の過 剰人口の緩和と労働のチャンスの付与といった理由づけよりも,むしろこの点に求められ る。つまり,植民地建設を通じて世界の資源が有効に利用され国際分業のメリットが生じ る,といった効果はすぐには生じないので,統治によって担われるべきだ,というのであ る(第11章第14節)。また,受益者に費用負担を求めることができない灯台の建設や,専 門的な努力を要する科学的発見などは,自己利益にそった市場原理にそぐわないので統治 が援助する領域に属する,とされる(第11章第15節)。灯台の例などは,概念的にはやが て,私的効用と社会的効用,私的富裕と社会的富裕の乖離をしめす具体的事例として,シ ジウィク『経済学原理』(1883)によって意味づけられるものであった。
5 結び
19世紀半ばまでのイギリス統治体制は,第1に,戦争に備えた公債依存型負債国家から グラッドストンに代表される健全財政型国家に推移していく過程であった。第2に,議会 改革を通じて立法改革と,やがては競争試験型の公務員制度改革を含む行政改革を進めつ つ,都市化社会への対応を進めていく「改革の時代」であった。たしかに捉えようによれ ば,団結禁止法の廃止,株式会社の漸次的な容認,穀物法廃止に見られるように自由放任 と特徴づけできるような指標もある。また,ボイド・ヒルトンがチャーマーズ論を通じて 示したように,グラッドストンに至る機運は福音派の厳罰主義的なメッセージを受け取る べき自由放任の徹底,という解釈もあり得よう。他方で,カーライルが享楽主義と拝金主 義として時代の風潮を描き出すように,議会改革にもかかわらず統治の担い手の欠陥を批 判する論調もあり得た。しかしミルの議論は,『原理』最終章が「自由放任」という「一 般原則」とそれへの長大な例外,という形で書かれているとはいえ,自由放任賛美とロマ ン主義的告発との単なる折衷とか,自由放任と政府干渉との折半,といったものではない。
既に見たように,統治の担うべき経済的な役割について,社会的便宜の実現を人間性の 実情の2段階把握にかみ合う形で進める観点から判断するという,漸進的な功利主義のヴ ィジョンであった。これを支えるのが,現存する社会において人間像が多様なものとして 存在しているとの,1830年代後半の論説(「文明論」1836,など)で把握された認識なの である。
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