No. 3, 1997年12月25日
(本郷 亮作成)
『アレグザンダー・ハミルトン文書』との出会い
田島 恵児(静岡産業大学)
昭和30年代初め,筆者達がハミルトン研究のために一番頻用した資料は,S. マッキー2世編のAlexander Hamilton's Papers on Public Credit,Commerce and Finance(1934)であった。これはハミルトンの有名な四大報告書等を収録した資料集である。筆者達は,これによりつつ保護主義政策の観点からハミルトン体制を検討していった。しかし,その後,ハミルトンに関する膨大な手書き史料が『ハミルトン文書』としてアメリカ国会図書館に所蔵されていることを知り,早速,かれが『製造業に関する報告書』(1791)を執筆した時期に関する史料をマイクロフィルムで取り寄せた。それを調べてゆくうちに,かれがこの報告書を完成する前に「草稿」を四回も書き直しているばかりか,さらにそれ以前に広範な工業調査も行っており,それらに関する史料は膨大な量に達することがわかった。とてもこれでは,マッキー編の資料集を利用する程度のレベルの研究ではお話にならないことを痛切に知らされ,非常に大きなショックを受けた。しかし,幸いこの『ハミルトン文書』は,H. C. サイレット編『アレグザンダー・ハミルトン文書』(全27巻)として1961年からコロンビア大学出版部で出版されることとなり,筆者達もこの原史料に基づいて研究を進めることができるようになった。
さて,ハミルトンが財務長官就任後最初に取り掛かった仕事は,独立戦争中に発行された多額の公的債務証書を新連邦政府の公債として確定することであり,かれは,その政策提案を『公信用に関する報告書』(1790)において行なった。そこで,この報告書が収録されている『ハミルトン文書』第6巻について調べてみてわかっ たことは,報告書のタイトルがReport Relative to a Provision for the Support of Public Cred-itとなっていて,公債public debtという用語が報告書のタイトルには用いられていないことである。しかも,報告書の中でハミルトンは,政府が公債public debtを取り扱う際には,公信用public creditを確立しなければならないことを繰り返し強調しているのである。しかし,このような考え方は,周知のスミスには見いだされないことはいうまでもない。すると,その思想の源泉は何処にあったのか。ここから筆者のジェイムズ・ステュアートに至る研究遍歴の旅が始まった。しかし,その旅の発端に上述した『ハミルトン文書』とのショッキングな出会いがあったことを今でも忘れることはできない。
第3回 アメリカ経済思想史研究会(1997年6月21日,13:00〜19:00,関西学院大学経済学部)
田中敏弘代表幹事の挨拶ののち,議長に佐々木晃幹事を選出し,議事が進められた。
報告事項:(1)「アメリカ経済思想史研究ニューズレター」No.2の発行(1996年12月25日)。(2)Dr. Geoffrey Hodgson, Cambridge Universityをゲストスピーカーとする経済学セミナー(関西学院大学経済学部主催)を開催し,関西在住会員に案内した。テーマはComparing the 'Old' and 'New' Institutional Economics。(3)新入会員:大森 雄太郎氏(慶應義塾大学文学部),研究テーマ:アメリカ革命期の政治思想史,推薦者:白井 厚会員。
審議事項:(1)賛助会員として雄松堂書店(関西支店)を承認。(2)1996年度会計報告(略)を承認。(3)「アメリカ経済思想史研究ニューズレター」No.3を199 7年12月末に発行する。(4)第4回研究会は日本大学経済学部にて1997年6月に開催する。報告は3報告とする。(5)今回の研究報告の司会者は次の通りとする。第1報 告(池尾)−田中敏弘,第2報告(白井)−佐々木晃,第3報告(田中)−高哲男。
(1)池尾 愛子(国学院大学)「アメリカ経済学の数学化(1950-60年代)」
(2)白井 厚(帝京平成大学)「アジア太平洋戦争中のアメリカ観の変化――特に小泉信三の場合――」
(3)田中 敏弘(関西学院大学)「J. B. クラークとF. H. ギディングズ――未公開往復書簡の概要について――」
研究報告要旨
池尾 愛子(国学院大学)「アメリカ経済学の数学化(1950-60年代)」
本報告では,アメリカ経済学が1950-60年代に変貌していく過程をたどった。つまり,この時期に,アメリカ経済学自体が多元的・文学的接近法から,数学的・計 量的接近法に変化したことを明らかにした。
1940年代半ばまでのアメリカでの経済研究をみると,数学を積極的に使う人は少 数派であった。グルーチーの『現代経済思想:アメリカの貢献』(Grouchy 1947) では,数理経済学はとりあげられていない。
第二次世界大戦中に,軍事関連の科学研究が振興されるなど,アメリカの科学政策が変化した。大戦後も,冷戦の始まりをうけて軍事研究が推進される一方,非軍事研究も奨励された。National Science Foundation も設立されたが,Office of Naval Research (ONR)の海軍関係者がずるがしこくたちまわって,1957年までは,ONR に全米科学振興財団としての役割を果たさせることに成功した。実際ONRは,多くの数理科学・数理経済学研究に資金を提供した。スタンフォード大学のK.J.アローのプロジェクト(The Efficiency of Decision Making in Economic Systems)もそのうちの一つで,ヨーロッパや日本の数理経済学者たちも参加し,開かれた研究を行っていた。その他に,当時のアメリカでの数理経済学研究の拠点には,Cowles Foundationや RAND corporation があった。
1950年代から,アメリカでの大学院教育が顕著に変化し始め,外国語に代えて,統計学・数学が導入されるようになった。そして,1960年代になると,ヨーロッパからの留学生が減り,アジアからの留学生が増えたことが指摘されている。日本の経済学者や若者たちも,第二次大戦以降には,ヨーロッパよりもむしろアメリカに留学して経済学を研究することが多くなった。
数学の導入によって,経済学者による問題の問われ方が変化した。理論経済学では,公理や仮定から出発し,定理を証明するという手続きがとられ,実証経済学 empirical studiesでは,統計的検定が行われるようになった。この背景にコンピュ−タの性能の向上があることも重要である。
Reference
白井 厚(帝京平成大学)「アジア太平洋戦争中のアメリカ観の変化 ――特に小泉信三の場合――」
この会は社会思想史も研究対象に含むので,日本の代表的な社会思想史研究者の一人小泉のアメリカ観を,戦前−戦中−戦後を通じてあとづける。
経済学者の小泉は,1920年頃から社会思想史の研究でも頭角を現したが(cf.拙稿「社会思想史学事始め」,『社会思想史断章』日本経済評論社),アメリカへの関心は薄かった。しかし1936年慶応大学長としてHarvard大学創立300年の式典に出席,Conant学長に会いその印象について書いている(cf. 原田譲「ハーヴァード大学における第二次世界大戦」,拙編『大学とアジア太平洋戦争』日本経済評論社)。その後米国内を旅行し約20の大学を訪問,アメリカ人の学問尊重と理想主義,ディモクラシィ,旺盛な国力,率直な国民性などにに感銘を受けた。
不幸なことに,小泉の学長時代 (1933-1947) は戦争の時代であった。彼は日中戦争が始まると『忠烈なる我が将兵』 (1937) を書いて日本軍の戦闘を賛美し,学生に戦時道徳を強調し,日米開戦,緒戦の勝利に感激,戦局不利となると,米国大学の卒業生と日本の大学の卒業生のいずれが真の国家防衛者であるかと問い,「学徒出陣」を促した。戦争末期においては『戦争と道義』(1944) というパンフレットを書いて不屈の精神を叫び,「アメリカ人の残忍性」などの文でアメリカを攻撃している。小泉は,アメリカの帝国主義,侵略,インディアンや黒人やメキシコ人に対する抑圧,排日運動,白人優越感,自己中心主義,浅薄な物質主義,実利主義を激しく非難し,勝利のために学生を奮起させた。(cf.拙稿「慶応義塾大学における社会思想研究とアジア太平洋戦争」,『大学とアジア太平洋戦争』。「50年目の大学評価」,『三田学会雑誌』96年4月)
空襲で傷ついた小泉は敗戦によって戦犯指定も覚悟したが,戦争協力については反省し,塾長を辞任して保守的な親米的な自由主義者として文筆の面で活躍,吉田茂首相などと親しく,現天皇の教育にも当った。
このようにアメリカに対しては,無関心→好感→対米戦争協力→親米へと考えを変えたが,これは勿論日本人一般の考え方と無縁ではない。しかし代表的な経済学者,社会思想史家,教育者の小泉がなぜ戦時中強硬なアメリカ批判を行ったのか。
第一に,戦時中に福沢諭吉と慶応義塾の親英米的・自由主義的・個人主義的・功利主義的傾向に対して攻撃が強まったことである。陸軍予科士官学校の歴史教科 書では福沢の思想は国体に反するとして楠公権助論と共に非難されているし,慶応は最も自由主義的な大学として右翼や軍部の攻撃の的になっていた。学長として,軍の方針に協力して大学を守るという意識が強かったであろう。
第二に,福沢の文章には「忠君愛国」「滅私奉公」「大東亜共栄圏」的な表現や国権皇張,米英批判の言葉が多いので,後継者たる小泉は福沢を引用して戦意昂揚を訴えることが出来た。
第三に,小泉は戦闘的な性格で特に海軍を好み,日米開戦には批判的だったが,“開戦したからには勝たねばならぬ”という単純明快な主張で学生を激励した。海軍に行った息子が戦死したという事情も,彼の闘争心を掻き立てたであろう。
第四に,1944年に彼は小磯内閣の顧問になるなど,支配階級の一員であった。被支配階級の社会主義的な反戦思想などに耳を傾けることはなかったのである。彼は早くからマルクシズム批判の闘将で,マルクシズムからの侵略戦争批判にも学ばなかった。
太平洋戦争の原因としては,支配階級の人達が常に軍部の強硬論に引っ張られたこと,天皇崇拝の念が強かったこと,アメリカ研究がおろそかだったことが挙げられるが,自由主義的な経済学者小泉信三においても,その一例を見ることができる。
田中 敏弘(関西学院大学)「 J. B. クラークとF. H. ギディングズ――未公開往復書簡の概要を中心に――」
アメリカ近代経済学の成立において中心的役割を果たしたJ. B. クラークとその親友の社会学者として知られるF. H. ギディングズ(1855-1931)との未公開往復書簡(1886-1930) 271通がS. N. Pattenのギディングズ宛自筆書簡 25 通などと共に発見され,1995年に関西学院大学図書館に所蔵されるようになった。報告者はこれらの手書き自筆書簡の解読に着手し,その作業を一応終了したので,ここにその概要を明らかにし,その経済学史的意義の解明の準備としたい。
この往復書簡は,クラークからギディングズに宛てた書簡が 265通(約 850頁),ギディングズのクラーク宛書簡(コピー)は 5通と長文のメモ1点からなっている。クラークの書簡の約98%はクラーク経済学の重要な展開期である1886年から1895年にわたる10年間に集中している。したがって,これらの書簡は,限界生産力的分配論を中核とした,アメリカの限界革命期におけるクラーク経済学の展開過程に,これまで以上に詳細・具体的な光を当てるという経済学史的資料価値をもっている。このことは同時に,これらはアメリカにおける近代経済学の形成・展開過程の解明に役立つといえる。
こうした観点から,これらの書簡は,主として次の点について一層の光を投じることになる。(1)クラークを中心としたアメリカにおける限界生産力的分配論の形成過程,(2)レント論の展開過程,(3)とくに資本概念と資本の限界生産力理論の形成・展開過程,(4)ベーム−バヴェルクその他のオーストリー学派経済学者との資本・利子論争について,(5)Stuart Woodとの関連。
次にこれら書簡の分析により,ギディングズがクラーク経済学の展開過程において果たした役割が問題となる。ギディングズが果たした役割は,これまで考えられてきた彼らの共著『現代の分配過程−競争とその限界の研究−』(The Modern Distributive Process. Studies of Competition and Its Limits, 1888)の著者という範囲をはるかに超えている。彼はクラークの限界生産力的分配論を中心に経済理論のほぼ全般に関して討論者としての役割を果たし,クラークに影響を与えている。とくに静学・動学の区別と動学展開への影響は重要である。さらにクラークにおける初期のキリスト教社会主義から「進歩的自由主義」へのイデオロギー的転換への保守派ギディングズの影響も興味ある論点といえる。
第4回研究会は日本大学経済学部において1998年6月13日(土)に開催されます。詳細はのちほどご連絡致します。研究報告を希望される会員は,1998年2月末までに関西学院大学経済学部 田中敏弘会員までお申し出下さい。
会費納入のお願い
1998年度会費(¥3,000)を1月以降に事務局まで納入して下さい。現金書留にてお送り下さい。なお,1996,97年度会費未納の会員の方は,あわせてご送金下さい。
会員名簿の訂正(略)
1996年度会計報告(略)
【編集後記】
今年もまたあとわずかとなりました。この『ニューズレター』も皆様のご協力で第3号を発行することが出来ました。事務局の井上琢智が海外研修で留守になり,たちまち困りましたが,院生の本郷 亮君の助けでなんとかしのぐことが出来ました。新年もどうぞよろしく。
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